方国瑜の幼年期と青年期の生平からみた学術思想の形成 2007-01-05


民国期の民族学者は、ごく少数ではあるが、非漢民族出身の民族学者がいる。彝族出身や嶺光電(土司出身)、曲木蔵繞(こ
の二者については清水亨「イ─涼山イ族を中心に」綾部恒雄監修・末成道男、曽士才編『講座:世界の先住民族・東アジア』
東京:明石書店、2005年に詳しい)。
ミャオ族出身の石啓貴は、凌純声・芮逸夫らによる『湘西苗族調査報告』の調査に参加し、自らも『苗族実地調査報告』
を著している。

雲南省ではナシ族研究に先駆的な業績を残し、西南地方の歴史研究・民族史研究の基礎を築いたといえる方国瑜(1903-1983)
が一応の非漢民族出身学者といえる。雲南西北部の麗江盆地の政治的・経済的中心地であった大研鎮の出身である。彼自身は
ナシ語を話すことができたと思われるが、その祖先は内地出身である。したがって、血統からいえば漢族の血を引いており、
彼自身をネイティブ出身の学者の範疇に入れるかどうかは検討の余地がある。ただし、中華民国期に圧倒的に多かった漢族学
者と一線を画する点は、方国瑜自身が少数民族居住地出身であるという事実であり、生涯雲南歴史地理研究に従事した彼の研
究に一貫する姿勢は、出身地雲南省の非漢民族地区としての特性や中国辺疆地区としての対外的にも切迫した研究の必要性と
いうことを離れてはあり得ないものであった。

方国瑜については、伝記資料がいくつか残されており、弟子の林超民による「方国瑜先生伝略」(『雲南資料叢刊』第一巻所
収)[林超民 1990]と娘の方福祺による『方国瑜伝』[方福祺 2001]が詳細に学術生涯を跡づけている。

以下、これらの資料を基に要約するが、主には方福祺『方国瑜伝』に依る。

方国瑜は麗江大研鎮文治村の出身で、光緒二十九年(1903)、地方特産物の交易を生業とする方堡の次子として生まれた。
方家の祖籍は安徽省(安慶府潜山県大石橋)である。方家は、明初、雲南遠征を指揮した傅友徳に従った方原仲という人物に
より、昆明に定住している。清代乾隆年間に十四世の方函宇の代になり、四子、方庭鳳が麗江の商人、趙氏の娘と結婚し、麗
江に定住し、商家を営む。方国瑜の伯父、方堃は方庭鳳の孫に当たり、光緒年間の貢生であり、麗江の商務会の初代会長を務
めた人物である。このような方家の歴史からみると、方国瑜は戸籍上はナシ族とされているが、実際は漢族の血筋を引いてい
る側面が強いのである。

方国瑜は身体虚弱で、五歳の時につまずいた折香炉に右眼が触れ、生涯にわたり完治することはなかったという。晩年に失明
しているが、大量の研究活動による眼の酷使とともに、幼時の怪我も失明の遠因ともなっているだろう。
七歳の折私塾に入って学問をはじめる。楊家学館をはじめとし、三家の学館を経て、公立の蒙養学堂に入る。1911年の辛亥革
命で蒙養学堂が停学すると、翌年に初等小学堂に入る。

麗江は、もともと土司の木氏が詩文の創作を得意とし、漢文化の素養に優れていたように、内地文化の摂取に積極的な土地柄
であり、とくに壅正年間の改土帰流以降、進士七名、挙人六十余名、貢生百三十四名を輩出している。康煕年間に開かれた玉
河書院、壅正年間に開かれた雪山書院があり、光緒年間には三十一の学館があったという。

方国瑜は1918年に麗江の六属聯合中学に入るが、この中学は麗江・鶴慶・中甸・維西・蘭坪など、雲南西北部の六県による四
年制中学であった。校長の周冠南は、麗江出身で、日本で教育学を修めた知識人であり、辺疆地区における近代教育の推進を
目指していた。校内の活動は、「国語会」「講演会」があり、国語(標準語)教育の実践が行われており、非漢民族居住地区
における民国期の教育活動として興味深い。

この時期、方国瑜は貢生出身の和譲より詩文を学んでいる。家庭ではナシ語が使われていたと思われるが、(西南官話)も使
用可能な環境であったと思われる。六属聯合中学で国語教育を基礎とした新式教育を受け、和譲より伝統的な漢学の素養を学
んだ方国瑜は、北京で国学を学ぶ基礎を麗江ですでに身につけていたといえ、伝統的に科挙制度をはじめとする中華世界内部
での立身出世のシステムの中で自己実現を図ってきた麗江ナシ族知識人の典型的な在り方を継承していたといえよう。

しかしながら、方国瑜が北京に学んだのは、本人の希望というよりも、大学進学は祖母の強い願いがこもった遺言による。父、
方堡は方国瑜十歳の折、上海に經商に行く途中、ベトナムのハイフォンで客死していたが、祖母と伯父、叔父は方国瑜の大学
受験を強く希望した。本人自身は決して青雲の志を抱いての進学ではなかった。受験への旅に出てから志に動揺をきたし、昆
明の二部師範を受験して将来は中学教師になるつもりであったが、日本留学を希望する伯父の反対により、断念し、妥協的な
方途として北京での受験を選んだのであった。
1923年に北京に出、雲南会館に身を落ち着けた方国瑜は、一度の失敗ののち、翌年北京師範大学予科に入学し、北京師範大学
に進む。授業は沈兼士の「読書法」、魯迅の「中国小学史」、銭玄同の「清代学術」、梁啓超の「中国文化史」などを選んで
おり、五四知識人の代表ともいえる人物たちの講義に触れている。

方福祺の『方国瑜伝』は、彼自身は沈兼士と銭玄同の影響をもっとも受けたとするが、沈兼士からは目録学、校勘学、訓詁学
をはじめ、伝統的な漢学への興味を呼び覚ますとともに、考証学的な方法論へ眼を向けさせる契機となった。銭玄同からは「疑
古」、現在の視座から批判的吟味を経て歴史に対する態度を学んだといわれる。

また、当時各省の在北京学生の団体は、左派、右派へ分化する傾向にあった。雲南旅平学会は左派である「新滇社」と右派「青
年社」があったが、本人は新滇社に属し、雲南旅平学会の刊行物『雲南週刊』に「力一」の筆名で、「政治思潮与教育」「中
国革命之意義」などの文章を寄せている。五四精神を受け継いだ開明的な青年学徒としての面貌も窺える。

ここまで方国瑜の生い立ちから学生時代までの生平を概観してきたが、彼の自己形成史と関わるかたちで方国瑜の学問の特質
を考察してみる。

方国瑜の学術経験から読みとれることは。以下の四点に要約できよう。

@方国瑜の学歴の背景には、麗江ナシ族社会の伝統としての中国の学問伝統の重視がある。
麗江の知識人は、科挙、つまり官吏登用システムの中で積極的に立身出世を図り、家門繁栄を目指してきた。方国瑜が学問で
身を立てるべく家庭内で教育されたのは、雲南非漢民族では、ナシ族・ペー族に典型的にみられる中華世界の内部に積極的に
自らを位置づけ、自己実現を図るという伝統にもとづくものである。

A方国瑜は北京での大学時代に、みずからの出身地である麗江の民族文化を研究する必要に目覚めた。
このことは、劉半農からトンパ文字に質問されたとき、自分が何も知らないことに気づいたことが、方国瑜に自身の民族伝統
についてのアイデンティティの自覚を促すきっかけとなったといえる。また、トンパ文字が国外で研究されているという事実
も、彼自身のナショナリティックな感情を刺激したのかもしれない。総じて、麗江を中華世界の周縁部とすれば、国内の知識
人が麗江のナシ族文化に関心をもっていること、また国外においても充分な学術的価値を見いだされて関心されていることが、
彼のナシ族民族文化研究、ひいては雲南史地研究に向かわせた動機となっていよう。

B方国瑜はナシ族文化研究より、むしろ雲南史地研究の基礎を造りあげたことが、彼の最も大きな学術業績であるといえる。
雲南史地研究に向かわせた動機づけは、李根源、周鍾岳らによって目指されていた雲南史地学への強い誘いがあった。方国瑜
は銭玄同の影響を強く受けたように、五四知識人としてのナショナリズムの洗礼を受けた人物であるが、このことはより緊急
的には、フランス・イギリスを肇とする列強の雲南国境地帯の進出、植民地化が、雲南地方の知識人にナショナリスティック
な刺激を与え、雲南地方を研究対象とする必要に目覚めさせたといってもよい。李根源についていえば、ビルマと国境を接す
る騰衝県出身で、もともと辺疆防衛を任務とする軍戸の家柄の出身であり、辺疆情勢に強い関心をもっていた。李根源の編纂
した『永昌府文徴』も、そのような関心から編纂された史地研究資料であり、後年方国瑜が晩年の心血を注いだ『雲南史料叢
刊』のプロトタイプであるともいえなくもない。
方国瑜の育った麗江も、近隣の維西、蘭坪など、怒江流域地帯は、イギリスの進出に絶えず脅かされていた地域でもあった。
李根源も方国瑜もマーガリー事件や、片馬問題などが頻発した、清末民初の辺地情勢に危機意識をもっていたことは当然のこ
とといえる。方国瑜のワ族に対する調査などは、ネイティブとしてなされたものではないことはもちろんであるが、雲南辺地
問題への関心と危機感からなされた調査であるといえ、その意味で雲南出身者が、省内の非漢民族について行った調査として
特徴づけられる。このような観点から書かれた著作は、たとえば怒江周辺の辺地情勢についてまとめた尹明徳の著作などにも
あらわれている。その意味で、方国瑜の行った民族調査は、ネイティブ出身者ではないが、省内出身者によって書かれた民族
誌として、他の内地出身者が書いた民族誌とは区別されるべき性格が見いだせよう。

C最後に強調すべきことは、方国瑜が雲南史地研究を行う上で、方法論的に依拠しているのは、中国の国学の伝統であり、よ
り直接的には清代考証学の伝統がある。
清代文献資料に対する厳正な校勘を目論む清代考証学が、中国近代史学および民族学に与えた影響は重要である。
方国瑜は留学経験者ではないが、欧米の最新の学術理論の洗礼を受けなかったものの、自国の伝統から自身の学問の方法論を
生み出すことに成功しているという点が、彼の学術経験の意味として重要である。
国学の伝統に由来する実証的な方法が、方国瑜によって基礎を造られた雲南史地学の根幹の方法論として適用されていること
が、近代史学の一分野としての雲南史地学の成立に寄与している面が大きいことを指摘することができる。方国瑜のみならず、
民国期の民族学者の多くの著作にも、史学的関心は強くあらわれている。凌純声純、芮逸夫、江応樑、陶雲逵など、ほとんど
の民族学者の著作は、地方誌資料からの検討を著作の冒頭において執筆している。歴史的関心と史学的方法論への傾倒が、民
眼 国期の中国人学者による民族誌の特徴として指摘できる。すでに章太炎が、清代考証学の方法を用いて西南民族についての記
事を記しているように、彼らの著作の方法論として、史学的方法が典型的なスタイルとしてみられることは、この時期の民族
誌の可能性を示すものとして注目されよう。

附記:
方福祺 2001『方国瑜伝』昆明:雲南大学出版社
林超民 1990「方国瑜先生伝略」方国瑜主編・徐文徳、木芹纂録校訂『雲南資料叢刊』巻一、昆明・雲南人民出版社:1-16頁