四川古鎮行 その1 プロローグ


2008−01-01


四川省の古街を探訪した取材旅行の話です。

旅行の期間は、2005年2月26日から、3月17日までの20日間です。

なんのための旅行かというと、目的は四川省にいまなお古い面影を残す街─これを「古鎮」と呼びます─を写真に記録し、資
料を収集するというものでした。

「古い」といっても、四川省は清代初期から、それ以降に外地から移民してきた人たちが、今日の住人の先祖であることがほ
とんどで、せいぜいが400年くらいの歴史しかありません。
あの辛い辛い四川料理だって、じつはそのくらいの歴史しかなく、麻婆豆腐だって、100年の歴史もなく、はっきりいって
中華民国の時代の産物なのです(てっとりはやく知るためには、次の本を御覧ください→張競『中華料理の文化史』ちくま書
房、1997年)。

明末清初の王朝移行期に、北京を陥落させ、明朝を滅ぼした李自成とともに中国を荒らし回った張献忠という人物がいました。
この人物は、天下の形勢がすでに我が手を離れたと知るや、三国時代の蜀にならって、四川に引きこもります(張献忠につい
ては次の文献が詳しいです。井波律子『酒池肉林』講談社、1993年)。

内地から四川に入るためには、川沿いの懸崖に丸太をつきだして造られた木道である桟道を通らねばならず、峻厳な自然に守
られた場所だからです。

しかし、四川に引きこもった張献忠は、自暴自棄に陥ったとしか思えず、ひたすら住民の虐殺を繰り広げます。
まさしく魯迅の言う「殺人のための殺人」(郭沫若らの創造社のテーゼ「芸術のための芸術」をもじっています)が行われた
のです。この時期四川は、張献忠に代表される歴史的な大混乱がつづいた結果、土地は荒廃し、無人の荒野が広がるともいう
状態に陥ったのでした(清代の野史、彭遵泗『蜀碧』が大げさではありますが、張献忠の暴虐について詳細に記しています)。
もちろんすべてを張献忠の所為にすることは無理があるのですが、『明会要』では明末の万暦年間では300万丁の人口が記録さ
れ、これだけの人口が清初にはことことく離散してしまうのです。
王朝交代期の四川で相当の人口減少が見られることは事実なのです。そこで、清朝は四川への移民を積極的に奨励しました。

なぜ、四川の古鎮が面白いかという理由も、まさしくこの点─四川が移民社会である、という点にあるのです。

さまざまな土地から鍋や農具など、最低限の生活道具をもって、この地に移民してきた人々は、もちろん各地から入植してい
ます。移民たちは出身地ごとにコミュニティーを造り、その出身地独自の文化習慣をも持ち込んでいます。

そのため、四川の村落は、それぞれ出身地を反映した個性が光った建築がしはしばみられるのです。
たとえば、各地の神を祀った集会所─会館や、江西・福建などから移民してきた客家の人たちの村落には、強烈な個性が刻印
されています。

四川地方の文化や社会は、よくよくみればそれなりに多元文化的な構造をなしているのです。