四川古鎮行 その4 黄龍渓鎮


2008−01-06


黄龍渓鎮


旅の日程


3月2日
芭石鉄道取材。犍為県石渓鎮から芭溝炭坑を結ぶ軽便鉄道。蒸気機関車に乗りに行きました。脱線もあって大変でした。

3月3日
成都へ行きました。夜に成都名物の「小喫」(軽食)を食べに行きました。

3日4日
成都見学 杜甫草堂、青羊宮で精進料理を食べました。麻婆豆腐の元祖である麻婆豆腐店、諸葛孔明を祭祀する武侯祠に参拝。

3月5日


黄龍渓鎮─成都郊外の港町


黄龍渓のいわれ

黄龍渓は、黄龍渓は、府河と鹿渓河の合流地にあり、成都郊外42q、府河の河流沿いにある交通の要衝として発展した街です。
以下、応金華・樊丙庚主編『四川歴史文化名城』成都・四川人民出版社、2001年)の文章が詳細ですので、これを基本資料と
して紹介していきます。

黄龍渓の名の由来は、『三国志』「蜀書」「先主伝」にある「間(近頃)黄龍、武陽の赤水に見え、九日にして乃ち去る」と
いう黄龍の瑞兆出現の記録によります。けだし太傅許靖が劉備に言った言葉で、蜀漢が建立一年前のこと、劉氏が蜀に依るこ
との吉兆ということなのです。
『黄龍甘露碑』には、黄龍武陽に見ゆの事、一鼎(かなえ)を鋳し、龍形を像づくり水中に沈む・・・故に名を黄龍渓と曰
(い)う(『隷続』収録)、『元豊九域志』には彭山県州北(眉山)四十五里にあり十九郷を文豊・蛮回・黄龍・福化四鎮を
轄す」、『輿地広記』に「黄龍鎮は赤水口にあり、漢末黄龍武陽に見ゆ」と記し、宋代には郷鎮として繁栄していたことが窺
えます(前掲書 594-595頁)。


黄龍渓鎮と府河の水運

船便で府河を下る場合、成都の九眼橋から朝出発し、航程ちょうど百里、夕方には黄龍渓に着きます。成都の手前の宿場町で
す。このように下りは楽なのですが、上りは水を逆らうので大変です。30トンクラスの木造船だと、百名あまりの船曳き夫が
縄を引っ張り船を動かします。

地元の俗謡に「一日軽々と河くだり、四日縄を担いで成都に上がる」といい、一日だいたい二十里進み、水かさが増している
と十里ほどしか進めなかったそうです。

港町ですから、ここで一晩休んで船を換え、荷を移すので、街中の川沿いの鎮江寺辺りにあった築堤王爺坎を下った埠頭では、
上りの船が一、二百艘、長さ二里の長きに並び、隣の皇墳村の辺りまで列をなし、下りの船も百艘近く、一里あまりの長きに並
び、鶏市壩まで列をなしていたそうです。鹿渓河にも、梁埠頭・胡埠頭の二つの埠頭があり、現地の農産物などを運ん
でいたとのことです。船の乗り換えが行われたところでした。

王爺坎の埠頭は対岸との渡し場でもあり、市が立つ日には府河を渡る農民がぎっしり列をなし、竹籠や天秤棒をもち箒や紙製
品などの日用品を運び、鶏・豚の家畜は船の上で鳴き叫ぶというにぎやかさでした。冬の渇水期には、河面に船を並べて浮き
橋にしていたといいます。なお、中華民国期末年の居住人口は1500人とのことです(前掲書:596頁)。

かつての清末から民国にかけての府河の水運交易について記しておきましょう。「温江・郫県・新都・崇慶・灌県など
の川西五県の食糧・油料・タバコ・絹織物・土布・日用品・特産物を下って、嘉定(今の楽山)、叙府(今の宜賓)へ輸送し、
近くは眉山・嘉平・青神・犍為・叙府などの府州県では、ここを経て石炭・食塩・木材・紙・竹器・酒などを成都に運
び、遠くは上海・武漢から叙府・嘉定を経て各種の軽工業製品を運んだ」そうです(前掲書:594頁)。

黄龍渓という名前は宋代の名で、清代では永興場といい、清末の成都の生活案内書『成都通覧』では黄泥渓と書いてあります。
黄龍渓という名が復興したのは中華人民共和国成立以降のことのようです。黄泥渓の名には理由があり、「舟人多くその地に
泊まり、船漏れを磨き補うに渓の泥を取る、細膩(こまやか)なり」と本書で記しているように河の泥が水漏れを防ぐに適し
ているという意味もあるのでしょう。


黄龍渓七街八廟

成都から中型バスに乗って1時間余り、鎮の入り口までは広い車道を通りますが、府河沿いには一面茶館が並び、空席もなく
客が遊んでいます。そこから対岸への鉄橋があるのですが、成都名物の菜の花畑越しに府河の川沿いに立ち並ぶ伝統建築の瓦
屋根の、高さも揃わぬ凸凹とした光景がとてもよい雰囲気です。ここでは向日葵の頭飾りが、観光みやげの定番商品となって
いて、多くの客がこれを求めて頭にかぶっていました。

正街附近は、土産物屋が7割、料理や3割といった感じで、相当な観光地化がなされています。映画の撮影舞台に何度も使わ
れており、地元成都ではそれなりに有名な観光地なのです。

興味深いのは、街道の所々にある露店で、ここで売ってるものは、正月などに門扉に掲げる縁起物の対句である対聯を書く店
であったり、縁起の良い飾り絵文字を書く書道の店であったり、シュロの葉を折って虫や鳥の形に仕上げる民芸屋(「棕編」
ヅォンピィエン)であったり、べっこう飴細工(「画糖」ホアタン)であったり、ふき飴細工(「吹糖人」チュウタンレン)
であったりなのですが、どなたも素晴らしい技術を持っていて驚きました(これらの素晴らしい大道芸については稿を改めて
ご紹介します)。

かつて黄龍渓鎮は七街八廟九台(劇舞台)のいわれがあり、市街には、府河沿いのメインストリート正街(全長250m)を中
心に、上河街・下河街・復興街・横街・巷子街などの七つの街道で構成され、清代からつづくこの街の歴史の中で79軒の古建
築が今なお残ります。
奥に奥にいけばいくほど味わい深い伝統建築の家並みがつづき、しずかな田舎町の昼下がりの雰囲気です。
復興街の小さな路地は、数軒の料理屋しかなく、落ち着いた雰囲気です。湾曲した石畳の小道沿いに立つ木造の商家は、空を
見上げればそのまま三日月形に青空がぽっかりとくり抜かれたかのようにみえ、街道が碁盤目のように秩序だっている多くの
城壁都市にはみられない港町らしい風情を感じます。

また、福建など沿海部によく見られる防火壁を大きく取った建築もみられ、かまぼこ形の半円を重ねた立派な防火壁が突きだ
した建築も現地の民居建築の特徴の一つです。

河沿いの建築は、湖南西部から重慶市に広く見られ、ミャオ族、トン族、トゥーチャ族の典型的な建築である吊脚楼がみられ
ます。柱を高く取った高床式の木楼建築で、河辺の風を室内に入れるに適した張り出し部が特徴です。四川西部では珍しい様
式が見られます。

正街は料理屋と土産物屋がひしめいていますが、その喧噪の中に三つの古寺が佇んでいます。その名も鎮江寺・潮音寺・古龍
寺の三つです。どの寺も水に関連し、航海安全や治水に関わっています。三つの寺は壁面を朱塗りとしており、統一がとれて
います。

八廟というのは、このほかに天后宮(古龍寺傍)・禹王宮(巷子街、今は小学校)・南華宮・三官堂・高廟子がありました。
このうち高廟子はわかりませんが、天后宮は、清初福建人が建てたものです。福建人の会館でもあり、航海安全の女神、媽祖
を祭祀しています。

南華宮はいわゆる湖広会館で、湖北・湖南人の移民の集う会館です。禹王も治水の神ではあります。
話が逸れますが日本では考えられませんが、中国では国家の指導者は理工系出身で、ダム技術者であった胡錦濤首席・李鵬元
首相や、機械工学技術者であった江沢民元主席、地質鉱山技師であった温家宝首相です。ダム技術者が指導者になるというの
は、国土の水難を収める者が国を制するという古代中国の帝王の伝統を見るようで興味深い現象です。
南華宮は南華真人こと荘子を祭祀しており、広東人が集う会館です。


古龍寺

正街の西端に位置する鎮内最大最古の寺院です。正街に堂々と相対しています。
T字路の突き当たりは、民家は悪い気が当たるとして避けるものですが、さすがは宗教建築、有難い仏光でものともせずに門
前市をなしています。
境内の中央には立派な鉄塔が建ち、向かいは豪華な装飾も眼を惹く「万年台」と呼ばれる劇舞台です。なにしろ柱に石彫りの
龍がからみついているのです。

南北両側に生えたガジュマルの大木は、樹齢1700年になんなんとするもので、この街の象徴でもあります。北の大木は根元に
黄葛大仙を祭祀し、この木に触るだけで病気を祓うことができるという信仰があります(応金華・樊丙庚主編『四川歴史文化
名城』成都・四川人民出版社、2001年:598頁)。これは「土地堂」と額が掛かり、土地神様の意味のようです。

「廟堂雖小善縁莫大」(廟堂は小さしと雖も善縁は莫大なり)「榕洞天然古今奇観」(ガジュマルの洞窟は天然にして古今の
奇観)と対聯が掲げられています。


潮音寺

正街の鎮江寺の附近にあります。清代光緒年間の建立です。観音菩薩を祭祀しているのは、南海の果て、補陀落の浄土にいる
とされる観音菩薩を、南海大士と称するように、航海安全と関わります。すなわち、慈航観音と呼ばれる白衣の観音を祀りま
す。蓮の花を見立てたロウソクの灯籠を観音の前に奉納する習俗がありました。


鎮江寺

正街の石畳を歩いてゆくと、東端の突き当たりに鎮江寺があります。
鎮江寺の境内には古いガジュマルの樹があり、紅布や紅唐辛子をぶら下げて信徒の平安無事を祈願する風習が興味を惹きまし
た。

楊泗将軍

ここに祭祀されているのは、湖南の洞庭湖の水神として洞庭王爺とともに盛んに祀られる楊泗将軍です。
「大廟は洞庭を離れず、小廟は楊泗を離れず」といいます。黄芝崗『中国的水神』には、作者の故郷の湖
南省の水神伝説が記されています。
この神は七歳で得道した小児の神で、両親に死に別れて叔父の家に暮らしてていました。ある日神力で船の釘を抜いて沈めて
しまい、叔父の平手打ちを喰らうのですが、なんとそのまま水に跳びこんで自殺してしまいます。
叔父はなおも怒って「もしお前が神だというならば、三日香りを放ち、三日悪臭を放ち、三日沈み、三日浮いて見せろ」と死
体に向かって罵ったところ、実際その通りにやってみせたので、村の物は川辺に紫雲宮を建てて神として祭祀したといいます
(黄芝崗『中国的水神』香港・龍門書局、1968年:1-6頁)。

四川省でも、楊泗将軍は各地に祭祀されている水神で、清・周克堃纂修『広安州新志』は、旧暦6月3日が祭祀の日で、
鎮江王に封じられ、龍を斬ったために得道したと記しています。

「各郷市の埠頭に廟が立ち、廟のあるところみな神を祭祀して劇
を演じる。紫雲宮がもっとも盛んである」(歳時「六月」の条)
(以上、川野明正、ノート「楊泗将軍」『神像呪符〈甲馬子〉集成─中国雲南省漢族・白族民間信仰誌』大阪・東方出版、19
95年:318-319頁)。

龍を斬ったとあるのは、秦代に都江堰の堤防を作り、治水に功績があった太守、李冰について、灌口の悪龍を退治したという
伝説があり、これが楊泗将軍についても同様の伝説となっているのではないかと思います。

鎮江寺の名は、鎮江王の名にふさわしく、実際の祭祀地点も埠頭の上方というところで、『広安州新志』の記す通りにここで
に祭祀されています。湖南・江西などからの移民が奉じた神ではないかと思われます。
  

三県一衙門

鎮内の最大の珍物といえるのが、県衙門(県役所)です。古龍寺の隣にあり、黒塗りを基調とした木造建築です。黄龍渓はか
つて華陽・彭山・仁寿三県の県境に位置しており、そこでこの役所は三県共用の派出所なのです。
清代は鎮内に「把総」を置き、衙門が建てられていましたが、中華民国期には三県合併式の衙門となります。「二進四合院」
形式で中庭二つを連ね、囲んで建築物を設けるもので、かなり質素です。牢屋などが再現されています。鎮内の紛糾の調停な
どの民事の管理、府河に築かれた古仏堰の堤防の水利管理、鎮内外の警察権の遂行、賊の取り締まりなどをしていたそうです。


打更

黄龍渓鎮はあまりにも観光客が多くて日中は落ち着きがない場所です。できれは鎮内の旅館に泊まってみることとよいでしょ
う。夜には更夫(夜回りの番人)が時刻を知らせる銅鑼を叩いて回ります。二人で銅鑼を竹竿で担ぎ、「戸締まり用心」「火
の用心」を叫びつつ、街を回るのです。鄔明樹氏のエッセイ「打更」を紹介しましょう。

かつて、更夫は、笠をかぶり簑を着込んだ姿でランプを持ち、腰には青竜刀を差し、仁寿県から始まって、華陽県、彭山県と、
県境をまたいで夜回りに来たそうです。終点は黄龍渓鎮の府河埠頭です。
一更(7時)、二更(9時)、三更(11時)と巡ってきます(注参照)。
商人や担ぎ人夫は三更には出立したとのこと。
土地の童謡を紹介します。

「揺、揺、揺。過大橋、打更伯伯真辛労、不貪財帛為大家、春夏秋冬功徳高」
(ゆらゆらゆら、ゆらして橋を渡ります。夜回りおじさんほんとうにご苦労さまよ。お宝貯めずに人のため、春夏秋冬功徳は
高い)

(中共双流県委員会外事宣伝弁公室・双流県人民政府新聞弁公室『神奇古鎮黄龍渓』北京・電子科技大学出版社、1997年:78- 80頁)。


地元料理

黄龍渓の地元料理はぜひ食べるべきです。河沿いの料理屋で河から吹く風を受けながら、一杯やって食べてみてください。

焦皮肘子=豚の肘肉を煮込み、さらに砂糖醤油で炒めたもの。肉付きがよく、甘くて美味しいです。

石磨豆腐(石臼挽きのおぼろ豆腐)=じっさいに石臼を挽いてみたらよいと思います。四川の人はこのおぼろ豆腐さえあれば
ご飯はいらないというくらいよく食べます。

炸小蝦=府河の川エビを串に刺して揚げたもの。

土製豆豉=大豆を蒸して塩を加え、竹葉で包み、しばってから日数かけて燻し、さらに干して作る(秦倹『古鎮川行』
北京・中国旅游出版社、2004年:33頁)


イベント

旧正月2日の夜から15日の元宵節まで、灯籠を仕込んだ火龍で街を練り歩いて踊る火龍灯舞がみられ、黄龍渓鎮最大のイベント
となっています。


交通

成都新南門汽車站と紅牌楼汽車站から1時間に1本マイクロバスが出ます。1時間余り。




打更の時刻

「 一 更 」 : 19:00-21:00
「 二 更 」 : 21:00-23:00
「 三 更 」 : 23:00-1:00
「 四 更 」 : 1:00-3:00
「 五 更 」 : 3:00-5:00

政府機関や地方の出先機関、集会所であった会館・公所などの公館も更夫を雇っており。清末の成都案内書である傅崇矩『成
都通覧』では、「成都之執業人及種類」で、次のように記しています。

「公館は建物が寛く深くため、多くは更夫を雇った。毎月の給料は5.600文である。これは賊を防ぐのが務めであるから、その
回数に拘らず、随意に見回りをさせるのであって、かならずしも三更に三更の時刻を報じるわけではなく、四更にはじめて四
更の刻を打つのである。盗賊が一定の時刻を知ったならば、時報の後で盗みに入るということをするはずもなかろう」。