四川古鎮行 その7 李荘鎮


2008−07-03


李荘

古鎮行の旅の最終地は四川東南部の宜賓市の李荘鎮です。宜賓市までは自貢から列車
で移動しました。宜賓の街は、岷江と金沙江が合流する河口にある街ですが、両河は
そのまま長江となって東に滔々と流れます。

李荘は、長江の河岸にある古鎮で、古朴な清代建築がつづく街並みのほかに、日中戦
争期に沿海部の各都市から移転した大学や研究機関が疎開した学問の都でもありまし
た。

当時李荘にあった研究機関を数えるとざっと以下の通りです。


その1.国立研究機関
中央研究院歴史語言研究所
中央研究院社会科学研究所
中央研究院人類体質学研究所
中国社会科学研究所
中央博物院

その2.高等教育機関(大学)
同済大学(本部・理学院・工学院・医学院)
金陵大学文科研究所
北京大学文科研究所

その3.学術団体
中国営造学社(建築学の学術団体)

長江の最初の一番目の古鎮(長江第一古鎮)である李荘は、まさしく一時期人文薈萃の
地であったのです。
今回の四川古鎮行の旅の最後にこの街を訪れた理由は、じつは私の研究テーマの一つ
に日中戦争期の中国西南民族研究の動向という課題があり、ぜひ当時の旧址を巡って
実地を体験したいと考えたからなのでした。


魁星閣

李荘の大通りの坂を長江に向かって降りてゆくと、巨大な三重の塔が出迎えてくれま
す。

これが李荘鎮のランドマークたる魁星閣です。魁星というのは、北斗七星の柄杓にあ
たる星で、かつての官吏登用試験であった科挙の合格を司る神です。鬼像で、合格者
の名を点じるために筆を執り、柄杓形に足をうしろに蹴りあげている姿です。

この建物は最近1998年建立されたものです。そうはいっても、是非更に一層上って
みてください。長江の蕩々たる泥水の流れを一望に、古鎮の甍が洋々たる海のように
連なる様を一望にすることができます。街の人々がのんびりと中庭や店先でくつろぐ
姿、下校する子供たちが道草がてらに遊び興じる様まで見て取れます。


中国営造学社

日中戦争期、中華民国時期のおしどり夫婦として知られる建築家夫妻の梁思成(1902-
1972・啓蒙思想家梁啓超の息子)・林徽因(1904-1955)は、李荘鎮から西1qばか
り離れた「月亮田」(三日月の田)と呼ばれる農村に居を構えていました。ここには
中国の建築学会である中国営造学社がありました。

とりあえず、オート三輪に乗せてもらって見に行きました。市街から1.7qの距離に
あります。

春先の緑が美しいのどかな農村は、懐かしい土の香りで一杯です。

そんななか、竹藪の向こうにぽつねんと農家があり、それが中国営造学社が居を構え
ていた場所だったのでした。がらんとしていて、簡素な、ごくごく普通の農家です。

中国営造学社は、1929年、朱啓鈴(袁世凱政府の国務院代理総理)が北京で設立し
た建築学の学会です。「営造」とは、建築を指します。

武漢から長沙・昆明を経て、数度の困難な曲折のうちに李荘に移転してきたのです。
夫妻のほかに、中国民居建築研究の権威である劉敦ヘも、当時李荘で学社の文献部主
任をしています。法式(様式)部主任の梁思成とともに中国営造学社の両頭です。こ
のほか、中国文物学会の重鎮、羅哲文氏も青年時代李荘で中国営造学社に在籍してい
ます。

しかしながら、これまで義和団事件の賠償金を、中国人留学生などの教育に転用した
庚子賠款の資金によって運営してきた学社の活動でしたが、これが1943年途絶する
ことにより立ちゆかなくなります。結果、劉敦ヘは中央大学建築学部に赴任、陳明達
も西南公路局に転勤してゆきます。日中戦争後、北京に戻った中国営造学社は、創設
者の朱啓鈴の自宅でほそぼそとつづけられましたが、1946年ひっそりと幕を閉じる
ことになります。

梁思成・林徽因夫妻は、1930年から1945年まで、15の省の200の県を巡って中国の
古建築の測量と研究に没頭しています。1937年6月、夫婦で山西省五台山の仏光寺
を調査し、仏殿が、これまで中国に現存しないと日本の建築学者などから言われてい
た唐代の建築であることを発見しています(唐・大中十一年、すなわち西暦857年
の建立)。

梁思成は1934年に『清式営造則例』を中国営造社から出版していますが、林徽因は
原稿の作成と校正に終始関わっています。終生夫を支え、写真撮影や写真整理を担当、
夫をして「この本(『清式営造則例』)の半分の著者というべきだ」と言わしめてい
ます(以下、林徽因の生平は、辛民「徐志摩与林徽因张幼儀陸小曼之間的情感故事」
(『人物』1998年第12期・1999年第1期・1999年第2期より・作者は『徐志摩伝』
の著者)。

  梁思成は、父とともに海外で長く亡命生活をしていましたが、1924年ペシンルバニ
ア大学で建築学を修めています。前年、フィリピンで交通事故に遭って入院したとき
も林徽因の手厚い看護を受けて知り合い、愛が芽生えたようです。林徽因は、梁思成
と当時おなじ大学で建築を学ぶつもりでしたが、建築学科で女子の入学が許されず、
美術学院に籍を置きながら建築を学んでいます。
林徽因の父、林長民は北洋政府の司法総長でしたが、海外視察に出国したおりに同伴
し、ロンドンで家を借りた大家が女性建築家であったことで、彼女は、年少にして建
築学を志したのです。

このとき、林徽因は、中国の著名な現代詩詩人徐志摩と出会います。徐志摩24歳、
林徽因16歳、のち1924年の春夏の半年に二人は熱烈に愛し合っています。徐志摩に
は陸小曼という夫人がおり、それを知った林徽因が徐志摩と別れて、梁思志とともに
留学したともいわれています。1931年、徐志摩が飛行機事故で不慮の死を遂げます
が、事故死の後、その遺品を林徽因は、終生夫妻の枕元に置いていたというエピソー
ドがあります。夫婦以外の人間には徐志摩を慕うこの感情は到底わかり得ないもので
はないでしょうか。

梁思成と林徽因の二人は1928年に結婚、中国に戻り東北大学で夫婦そろって建築学
の教鞭を執ります。東北大学の主楼は、梁思成の設計です。なお、この時期林徽因は
東北大学の校章をデザインしていますが、後に中華人民共和国国旗のデザインにも関
わっています。そのほか、鍍金した琺瑯細工である景泰藍の新しいデザイン、人民英
雄碑のデザインにも関わっていますが、もともと病弱であったため、1950年代半ば
に亡くなります。『新月』派の詩人・作家としても有名で、口語詩「人間四月天」は、
徐志摩と三人の女性を巡る恋愛ドラマのタイトルにもなり、ドラマはたいへんヒッ
トしました。

李荘は梁思成夫妻に西南建築に眼を見開かせるきっかけになりました。中央研究院の
建築資料編纂委員会の主任でもあった梁思成は、ここで『中国建築史』(のち1954年
、梁思成が出版に同意しなかったため、中国語版のみ大学教育向け教科書として50部
のみ印刷)と『図像中国建築史』(マサチュセッツ工科大学より出版、1984年版が入
手可)の二著を完成させます。
梁思成は、ここ李荘で我が国にとり重要なメッセージを発しています。奈良・京都の
空襲による文化財喪失を恐れた梁思成は、羅哲文とともに重慶に赴き、杭州・南京・
北京と日本の両古都の古建築の所在を地図で示して伝え、空襲を避けるように進言し
ています(左照環『古鎮李荘』私家印刷、珙県・2005年:29頁)。

執筆資料

左照環『古鎮李荘』私家印刷、珙県・2005年

辛民「徐志摩与林徽因张幼儀陸小曼之間的情感故事」(『人物』1998年第12期・1999
年第1期・1999年第2期
梁思成『中国建築史』天津・百花文芸出版社、1998年

梁思成『營造法式註釈』上・下巻、北京:中国建築工業出版社、1983年
Liang Ssu-Ch'Eng,A Pictorial History of Chinese Architecture─A Study of the Development
of Its Structural System and the Evolution of Its Types,The MIT Press,1984


李荘九宮十八廟

李荘は九宮十八廟の言い方があります。以下、左照環氏『古鎮李荘』から引用します
(左照環『古鎮李荘』私家印刷、珙県・2005年:49-50頁)。

文武宮=別名慧光寺。李荘市場中心。慧光寺街にあり。この街路は俗に「短短街」と
呼ばれています。短すぎて正月の龍踊りの龍も曲がるのに困るといわれているわけで
す。明代にはじまり、清代再建。今はなし。文武二官といい、学問の神様文昌帝君と
軍神関聖帝君を祭祀したのではないかと思われます。

紫雲宮=別名王爺廟。上河街。始建年代不明。1899年(光緒二十五)再建。案ずる
に紫雲宮は、たいていは洞庭湖の水神である楊泗将軍を祭祀しています。

真武宮=別名祖師殿。軍民街。真武大帝(北方の守護神)を祭祀。結社組織の天灯会
が建てたもの。1833年(道光十三)の建立。

桓公宮=別名張爺殿。線子市街。乾隆年間の始建。1864年(同治二年)拡充の後、
1905(光緒三十一)再建。

巧聖宮=別名魯班殿。文星街。もと禹王宮(湖広会館)。道光年間に禹王宮が慧光寺
に移転してから、建築業者の神である魯班を祭祀しています。巧、つまり匠の神のお
社。

禹王宮=湖南移民の尹洪昌により建設された湖広会館。日中戦争時期は、上海にある
国立同済大学の本部が置かれる。1992年以降仏教寺院となり慧光寺となる。

南華宮=濱江路にあり。広東会館。乾隆年間の創建。1896年(光緒二十二)再建。
1910年(宣統二)拡充。日中戦争期の同済大学理学院校舎。

天上宮=1845年(道光二十五)。線子市街にあり。福建会館。今の玉仏寺。

文昌宮=乾隆年間の建立。1852年(咸豊二年)拡充。羊街にあり。


禹王宮─同済大学本部旧址

朱塗りの壁がそびえ立つ山門は、庇の高さを二重に違えた入母屋式屋根(歇山式)で、
斗拱(斗と肱木を組み合わせて重量を分散させる部材)を幾重にも重ねあげて屋根に連
なり、遠目には菱形が折り重なった幾何学的な屋根回りがたいへん美しい建物です。
四柱、三門。

ここは、かつての湖広会館です。理工系大学の名門の所在地。この大学はもとドイ
ツ人Eyicn Paulunが1907年に創立した私立系医科大学で、第一次世界大戦で中国政府
に接収され、国立大学となりました。上海にあった大学です。

山門の裏は劇舞台。鳥獣や劇中の人物の木刻が精緻です。その向かいは前殿、後殿と
つづきます。前殿は切妻式屋根(懸山式)で、両側に方型を連ねた防火壁を設けていま
す。
石彫がすばらしく、牡丹が花を吐き出し、財神の趙公明が富を象徴し、『三国
志演義』の場面で彩られています。九龍の石碑はかつて梁思成が絶賛したという
物。後殿は前殿と似た切妻様式ですが、奥が廂房を左右に配して二階建ての楼閣になって
います。いまは慧光寺となっています。


東嶽廟─同済大学工学院旧址

東嶽廟は、上河街にあり、明代の正徳・嘉靖年間の創建。万暦年間再建。1827年
(清代道光七)再建。1868年(同治六)玉皇楼を建造。山門は特筆すべき美しさです。石
組の門柱に支えられた三洞の門楼が西洋建築のような風格があり、左右に短弓を空に
引き絞ったかのような半円の黒瓦に漆喰の壁面が八の字型に長江から流れる雲気を迎
え入れる美観です。

しかしながら、東嶽廟というのは、知る人ぞ知るあの恐ろしい、陰惨な東嶽廟です。
祭神の東嶽大帝というのは、冥界の主管神です。死者の魂は、村神である土地廟から、
地上の各地方行政官に相当する城隍神のもとに送られます。府であれば府城隍、県
であれば県城隍という冥界の知事がいるのです。ここで生前の行いと寿命を記録した
功過簿と生死簿に照らし合わされます。その後、城隍神の上司である東嶽大帝のもと
に魂が送られ、配下の地獄の十王(十殿閻王)のもとで審判ならびに各地獄での服役を
することになります。

我が街中国雲南省大理古城では、西門外に東嶽廟がありますが、自宅で息を引き取る
ことのできなかった者は、異常死者の扱いとなり、街の中で葬儀ができないために、
東嶽廟の前の砂利道で葬儀をすることがあります。夜中自転車を走らせていると、突
然麻の白装束を着た遺族たちが、野っ原に置かれた棺を囲んで喚いている光景に出く
わします。考えても見てください。街頭もないのっぱらで、いきなり路上に棺桶に突
き当たったのならば、誰だってそれは魂が消し飛ぶくらい驚くでしょう。そんな体験
があります。ですから、東嶽廟というのは、城隍廟と同じく、街に住む人にとっては
もっとも身近な冥界であり、中国では地下冥界の観念がありますから、それは「地獄」
(ディーイー)、「陰曹地府」(インツァオディーフー)への入り口を意味します。

その所為か、李荘でも街の西北角にあって、街中にはありません。

山門を潜ると、正殿、玉皇楼(道教の最高神玉皇大帝を祭祀)、丙霊殿(黄従化を祭祀)、
関聖殿、後殿、十殿閻王殿などが立ち並びます。ほぼ切妻式の木造建築です。ただ
し、神像はありません。

日中戦争期は同済大学工学院の校舎でした。6年間で700人の卒業生を送り出しまし
た。とくに機械工学系の学生などは、工学の知識を携えてここから日中戦争に出征し
ていったのです。


張家祠─中央博物院籌備処旧址

張家祠は、張家一族の先祖を祀る祠堂です。

1839年(道光十九)に張氏が一族の個人所有の土地を購入して先祖祭祀のための祠を
建てました。今は李荘小学校になっています。

前殿が大庁(ホール)で後殿が祠堂となっており、いずれも切妻式の長い木造建築です。
七間ほどの広い部屋で区切られているために学校には適しているでしょう。前殿の
中央の飾りの窓扉は「白鶴窓」といい、六枚の楠の板にそれぞれ二羽の白鶴を形を違
えて生き生きと彫っており、一見の価値があります。

張家祠堂は、比較的大きい建築物であったため、日中戦争期には国立中央博物院の設
立準備期間である籌備処がここに移転しています。、三千箱の文物とともに疎開して
いました。当時の中央博物院籌備処院長は形質人類学者で、考古学研究にも実績を上
げた李済(1896-1979年)でしたが、中央研究院は研究上密接な協力関係があり、同
済大学・中国営造学社とともに李荘で文物展覧会を開くなどの活動を行っています
(李荘の人文社会系研究機関の動向としては、次の研究論文があります。中華民国期
の民族研究全般についての知見を得ることが出来ます。川野明正「中華民国期の西南
民族研究─日中戦争期の中国各地研究機関の活動からみた概観」『アジア民族文化研
究』第5号、アジア民族文化学会、2006年:62-90頁)。

中央博物院籌備処は、国立博物院の設立準備組織です。民族研究の代表的な成果は、
馬長寿による嘉戎チベット族とイ族の調査研究があります。馬長寿は中央大学卒業後、
中央博物院に入り、日中戦争直前、1936年から1937年初頭にかけて、雷波・美姑
・昭覚などのイ族と、茂県・松潘県などのチベット系民族であるチャン族の調査を行
っています。馬長寿の研究成果は、「嘉戎民族社会史」(1944)「涼山羅夷的族譜」
(1945)などの著作があります。

この時期の重要な研究成果としては、李霖燦によるナシ族の象形文字経典であるトン
バ文字の経典整理事業があります。李霖燦はもともと中国の芸大にあたる国立杭州高
等芸術専門学校の学生として、学校の移転に伴い昆明に移りますが、作家沈従文の勧
めでトンバ文字と出会い、ナシ族象形文字の研究に没頭します。その仕事の集成をこ
こで行っていたのです。


祖師殿─同済大学医学院旧址

軍民街の広い石畳の路を歩いていると、突然八の字に広がる瀟洒な煉瓦組の門が見えま
す。

これが祖師殿です。左照環氏が紹介する説には光緒三十二年に、祖師殿は李荘鎮国民
中心小学校となった際、山門と戯楼を撤去して、西洋建築風の門をしつらえたとされま
す。もとは1833年(道光十三)結社組織である天灯会が建てたといい、玄武祖師を祭
祀した廟堂です。前殿と後殿でそれぞれ独立した四合院式の囲み屋様式となっていて、
その空間構成に特徴があります。玄武祖師は玄武大帝のことで、北方の守護神とし
ての性格があります。

日本にも鎌倉時代に伝わり妙見菩薩として仏教信仰に変じても信仰されています。

日中戦争期には同済大学医学院が移転していたのですが、大殿が解剖学実習の場所に
され、「同済大学が人を喰う」との風聞が瞬く間に鎮内に広がり、人々は恐怖に戦い
たのでした。

このうわさを打ち消すために、大学側では科学知識普及展覧会を開くなどして、啓蒙
活動に努めたといいます。

笑うに笑えない話ですが、よくカトリック教会が建つと、宣教師が子供を捉まえて生
き肝を売るなどのうわさが立つのと同じ流れの話です(私の家のある雲南省大理古城
のカトリック教会は十八世紀末からありますが、巷間そのような噂がまことしやかに
ずっと語られていました)。

日中戦争期の同済大学医学院の功績は、鎮内に疎開していた省立宜賓中学で発生した
麻脚瘟が杜公振教授と攝雛ル助手の研究により、食塩の成分が原因であることをつき
とめたことがあります。1943年全国応用科学類学術発明一等賞に輝く功績となりまし
た。1946年まで、同済大学は李荘に留まっていました(左照環『古鎮李荘』私家
印刷、珙県・2005年:89-93頁)。


南華宮

広東会館。乾隆年間の創建。南華宮とは、南華真人こと、荘子を祭祀する祭祀施設で
す。1896年(光緒二十二)再建。1910年(宣統二)拡充。日中戦争期の同済大学理
学院校舎。山門をくぐると裏は戯楼となっていて、向かいは正殿、廂坊を左右に配置
し後殿に連なり、小さい中庭をもった四合院形式です。正殿左右に二階建ての楼閣を設
け、屋根が釣り鐘状の塔となっていて、風格がありました。まるで討ち入りの大石
内蔵助着用の火消し兜のようです。ただし、一方の塔は撤去されています。

日中戦争期は、理学院の化学・数学・生物学の三つの学科が置かれ、1943年には著
名な科学者のジョゼフ・ニーダム(1890-1995)が生物学科の招きに応じて講演していま
す。


天上宮

線子市街にあり。鎮の最もにぎやかな中心広場に位置します。四段を描いて中心まで
段々と高くなる方形の山門に特徴があります。今は玉仏寺となっていますが、かつて
は1845年(道光二十五)創建の福建会館です。航海安全の女神である媽祖を祭祀しま
す。各地の媽祖廟と同じく、本殿の柱に精緻な木彫りの人物像が幾つも配されていま
す。


蓆子巷

  市街の街路では蓆子巷が知られています。蓆子とはアンペラのこと。かつて草編のア
ンペラを作っては売る家内制手工業の店がならんでいたためにこの名があります。小
さな小さな路地ですが、60mほど真っ直ぐに幅2.5mの石畳が几帳面に歪み一つなく
長方形の敷石をマス目を連ねて延びています。直線で構成された遠近法的空間が面白
いです。日本の宿場町のように左右には長屋のように二階建ての木造民家が連なり、
飾りもなく柱材と板戸と軒が極めて簡素に縦横の直線を構成しています。質朴な、贅
沢を禁じた明代風の街並を思わせます。両側の建物の軒はあまりに接近して突き出さ
れているため、巻物を広げたかのような帯状に天を見開かせているのです。各家の門
戸の前には、なお小さな門扉を備えているのが特徴です。


王家院子と羊街14号民居


王家院子は、羊街16号にあります。院子とは中庭を指し、同時に民居を指す通称で
す。やはり石造りの門柱に特徴があり、こちらは文字がいまなお読めます。

「満庭の佳樹は槐蔭を垂らし・半壁の晴山は桂花を擁す」の対聯が彫られています。羊
街16号。ただし、中側は1960年代火災で焼失しています。

かつて、金陵大学(現在の南京大学)文科研究所が日中戦争期に居を構えていた旧跡で
もあります。囲み屋形式の四合院です。

民居としては、向かいの羊街14号が本格的な木造家屋としてなかなか好ましい姿を
留めています。やはり八字に開いて福気を呼び込む大門の様式に特徴があります。長
石を組み合わせた荘麗な門に威風を感じます。門の石柱の左右には、石柱の下には左
右に角形雲紋に囲まれた花模様の石彫が彫られ、北京の清代の四合院を思わせる贅を
つくしたものです。

門柱上の鴨居の部分に円形の寿字紋が彫られ、細やかな彫刻が全面に施されています。
ただし、その上にある題刻四文字も、門柱左右の対聯も、残念ながら文化大革命で
ことごとく鑿で壊され判読が困難です。中の建物は、素朴で最小限の飾りしかありま
せんが、母屋中央の門扉などにさりげない窓枠の彫刻があり、金粉で化粧をするなど、
味があります。


同済社区老人協会活動二室

囲み形式の四合院民居の典型として、同済社区老人協会活動二室は日中開放ざれてい
ていつでも見学できる便利な建物です。退職老人の暇つぶしの空間なのですが、こう
いう老人協会のあるところ、どこも日がな一日麻雀に打ち興じているのです。

まず、八の字に大きく開いた石組の門が立派です。いずれ名のある家門の民居であっ
たでありましょう。上面の題刻は不明瞭ですが健在です。門扉左右の石柱に刻まれた
対聯は、「合和履中駕福乘喜・培蘭種桂幹國棟家」(「和合〈一家団らん〉の履中〈家
中〉は福も喜びも乗りきたり・蘭を培〈そだ〉て桂を種えて国の幹家の棟となす」)
という立派な対聯が家門の志の高さを内外にアピールしています。

門の立派さに対して意外に慎やかな中庭は、青石板が整然と敷かれて清潔感があり、
母屋中央の家堂に入る門扉は、窓枠の桟にこだわり、金粉が彫刻に施されています。
この点は先の羊街14号の四合院と共通する体裁です。屋根瓦の先端を、扇型の瓦材
で装飾して盛り上げ、さらに下向きに三角の瓦材を向けて山谷連続する装飾線を構成
しているところが秀逸です。そこらへんの四川民居とは違う凝った体裁です。屋根の
頂部の石彫も、いかにも家の押さえとして誇らしげです。

李荘郊外2.5qの石牛山とにある旋螺殿は、見事な六角形をなした三重の建築物で
す。晩明期の1596年(万暦二十四)の建造です。石牛の名のごとく牛の横たわる形
の巨岩の上にあります。崖下を河水が瀑布をなして池に落ちる景勝の地です。湖南省
は麻城県から移住してきた張氏一族がこの一帯に移住し、代々私塾として、学問を伝
えたそうです。


旋螺殿

旋螺殿は、学問の神様、文昌帝君を祭祀する宗教施設です。

八角形の三重の塔にみえますが、中は二階建てです。高さは25m、幅は8mで八角
形の面を描いています。四柱が二階まで伸び、梁から斗拱(斗と肱) で三重の黒瓦の
八角形の屋根をそれぞれ支えられていますが、第1、第2の屋根は、緻密に積み上げ
られた斗拱が右回りで頂部に至るように網状に渦をなしており、その螺旋状をなす内
部の斗拱の美観から、旋螺殿の名がつきました。「梁柱の構造の優は、当世に傲るに
頗る(すこぶる)足る作である」とは、梁思成の評語です。

(一応未完・結語なし)