牧岡奈美『うふくんでーた』─島唄アルバムその4
「ひこばえ」は育ちうるか?
(JABARA RECORDS 2001)

2007-10-29



『うふくんでーた』は、喜界島の唄者、牧岡奈美さんのデビューアルバムです。タイトルは喜界島の方言で
「有り難う」の意味。
喜界島の唄者といえば、島で三味線教室をしている安田宝英さんが著名ですが、牧岡奈美さんは安田さんの
お弟子さんです。安田さんも鼓(ちぢん)で参加しています。
牧岡さんは、1997年JABARAのコンビネーションアルバム『あさばな 奄美島唄紀行』で「塩道長浜」「かん
つめ節」の2曲を謡ってすでにレコードデビューしていますが、『うふくんでーた』は、18才のときの作
品で、三味線の伴奏と、お囃子付の伝統的な本来の島唄を謡ったもので、最近の三味線を用いない、ワール
ドミュージック的アレンジによる唄ではなく、彼女の本来の唄い方を知ることができます。

私が好きな唄である「曲りょ高頂」「かんつめ節」「ヨイスラ節」「諸鈍長浜節」「豊年節」
など、奄美南部でよく謡われる島唄の多くが、彼女のおはこともいえるものですが、それらが
「もともとこのように謡っているのだ」という発見があります。
「諸鈍長浜節」「豊年節」は、すでにしてこれは牧岡さんの唄だといえる洗練が感じられ、一
言で言えば、すべての曲に奄美大島南部のヒギャ(東)節にもとづきながら、その複雑さとは
異なる極めて平明な、純朴な印象を受けます。

このアルバムにはプロデューサー、森田純一さんのノートが付けられています。そこには島
唄の再生という注目すべき現象について記されています。以下、長いようですが事情を要約
してご紹介します。

喜界島の島唄は、かつて奄美大島のそれとは趣を異にした独特の島唄が謡われていたそうです。
ところが、本土の文化の流入と、方言撲滅運動によって、現地集落の言葉シマグチは衰退し、昔
の島唄は少数の古老のみが知るところになってしまったといいます。
牧岡奈美さんも当たり前のように標準語を聞き、標準語を話して育った世代です。
牧岡奈美さんは、1983年、喜界島に生まれ、小学生の時、母親から「祖母の歌うシマ唄に三
味線を付けて欲しい」といわれ、安田宝英三味線教室に通います。

安田宝英さんは、じつは喜界島の生まれではなく、徳之島伊仙町の出身で、彼自身の島唄は
徳之島のものです。
しかし、安田さんは教室で子供たちに教えた唄は、徳之島のものではなく、奄美大島南部の
ヒギャ節の平均的なスタイルでした。
安田さんの謡う唄をひな形にして、二人が交互に唄と囃子を担当し合う形で子供たちは唄を
習っていきました。二人がたがいの唄をコピーしあううち、思いもかけない現象が起きたの
です。つまり、「コピーの連続によって、ある種の洗練が加わった」結果、「子供たちの間
に非常に整ったヒギャ節が形成された」というのです。


日本全国津々浦々に及ぶ現代化の波とテレビなどによる標準語かの普及と、方言と地域文化
の衰退は、津波のように喜界島の地域文化にも襲いかかっています。
人々の心の根ともいえる地域の伝統文化の大木は、津波によって根本から折られてしまった
のかもしれません。
しかし、喜界島の島唄の再生は、思いもかけない形で、ヒギャ節に基づきながら、奄美大島
のどこにもない、喜界島の子供たちだけで創りあげられた、新しい島唄を生んだといえまし
ょう。

それは倒れた大樹の折れ目から生え出て来た「ひこばえ」のようなものかもしれません。
地域文化になお、生命力が残されていたということであると思います。

その条件は、二つあり、共同体と個人の双方にある種の力が必要ということだと思います。
地域共同体(奄美の言葉では人々が一生帰属する各地域の「シマ」の世界)に、島唄を謡うと
いう行為がなお息づいていることが必要でしょう。
共同体は島唄の存立を支える土壌です。子供たちや若者たちが、祖母や父、母の背中を見な
がら育ち、ある時、「島唄を謡う」という飛躍を行うわけです。

なにかを感じて島唄教室に通い出した牧岡さんだけでなく、唄者の母をもち、高校生で島唄
の世界に跳びこんだ中孝介さん、19歳で島唄を謡いはじめた前山真吾さんなど、近年奄美で
若い唄者の方がつぎつぎと生まれているのも、そのような個人の決意や決心がきっかけとな
っています。

グローバル化の津波が押し寄せた後の地域文化の復興の可能性について、牧岡奈美さんが経
験した島唄の再生の現象は、たいへん示唆に富む事例だと思います。