朝崎郁恵さんの講演会「朝崎郁恵・奄美島唄の世界」(朝日カルチャーセンター横浜校・2009年9月27日)

2008-10-29


奄美の唄者(うたしゃ)、朝崎郁恵さんの講演会が「朝崎郁恵・奄美島唄の世界」と題して、9月27日、朝日カルチャーセ
ンターの横浜校で開催されました。奄美の唄者さんの講演会は、去年の秋、南大島の坪山豊さんの解説公演を國學院大學で
聴きに行ったことがありましたが、唄者の方々それぞれのシマウタ観が披露されていて、興味をもちました。

朝崎郁恵さんは70を越える御年ですが、力をしぼるように小柄な身体から発せられる芯のあるウタを謡われます。
いつもの大島絣の着物姿で登場されていましたが、ほとんどの聴衆の方が、奄美に行ったことがないごく一般の方に、わか
りやすくシマウタの世界を解説するということで、はじめはいささか緊張されていたようでした。三味線の伴奏を務める相
方は、20の好青年、朝崎さんの故郷、加計呂麻島出身の徳原大和さんが務めました。

ノートにびっしり講演のメモを書かれていたのがとても印象に残りましたが、一時間半の時間ではおそらくその三分の一も
話すことはできなかったと思います。

「唄半学」と呼ばれるほどのウタの大事さについて、朝崎さんはシマで暮らした体験から、いろいろな例を取り上げて話さ
れます。

シマウタの機能について、村と村の水あらそい、土地争い、山の境界争いなどをうたの掛け合いで勝負して決めたという話
を、朝崎さんのおばあさんから聞いた話として語られていました。ウタの掛け合いのもつ社会性がわかります。

月を見れば月に手を合わす、山には入れば「山に入りますがどうぞお許しください、トートーガナシトートーガナシ」と唱
えるなどの自然信仰、あるいは神ウタとして、神に捧げるウタからはじまったというシマウタの宗教性についても触れられ
ていました。

神を降ろすトネヤ、神がいつでも入れる壁のない家、アシャゲ、八月の十五夜踊り聖地の土俵、カミヤマ、カミミチも全く
なくなって、浜も山もひどく汚されてしまったという深い悲しみも語られました。

ウタのもつ教訓の機能について、師匠の福島幸義さんが、親の本当の姿をみるならば、寝顔をみると解るといわれたこと、
両親をほとんど神というまで尊敬するというウタがあること、つまり、親を床の間に座ってもらって、私たちは臥して拝み
たい、というような情の厚さを謡った「アマグレ」の歌詞の意味などを解説されました。

朝崎さんは、奄美の歌謡が歴史の記録であるという伝承的な性格をとても強調されます。薩摩の時代に歴史文書を焼かれて
しまった奄美の人々の歴史は、ウタに記録されている。いくら政治的に圧迫されても人の心のウタを奪うことはできない、
という内心の自由としてのウタの伝承性をとても強調されていました。

朝崎さんは奄美のシマウタを奄美独特の歴史区分から紹介されました。平家の時代・琉球の時代・薩摩の時代という区分で
す。

奄美には、平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ちのび、約3年間喜界島に潜伏し、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流し、とも
に奄美大島に来訪したという伝説があります。行盛は龍郷町の戸口に、有盛は名瀬の浦上に、資盛は加計呂麻島の諸鈍に城
を構えて警戒したといい伝えられています(2005年に平家来島800年記念祭が行われました)。

この平家落人伝説を実際の歴史に当てはめる考え方の当否にはここでは触れませんが、平家落人伝説は、奄美ではシマウタ
の世界にしっかり根付いていて、「大和から来たあの美しい人他とはどういう人たちだろう、私たちに読み書きを教えてく
れる。私たちが集まるとでは大和から着た人たちのうわさ話をいつもしている」というウタが残っているそうです。

加計呂麻島の諸鈍シバヤという仮面舞踊は、平資盛公が京の都での栄華を思い出しながら諸鈍の民衆に教えたものだという
伝承を、加計呂麻島の人々は深く信じていますが、朝崎さんもそのような思いから語られているのでしょう。琉球時代につ
いてはは琉球兵が加計呂麻島の諸鈍の娘の美しさを讃えて謡った「諸鈍長浜」、薩摩時代は砂糖労働の厳しさを謡った「糸
繰り節」を謡われました。そのほか作業ウタの「イトゥ」も謡われました。

[「嘉義丸のうた」のこと]

私が考えされられたのは、朝崎さんが後半、お父上の朝崎辰恕さんが戦争中アメリカの潜水艦に撃沈された嘉義丸の遭難者
を悼んで作った「嘉義丸のうた」を謡われたことでした。

なによりも朝崎さんが戦争の記憶を唄に托して披露されたことが貴いのです。1943年5月26日、大阪から那覇に向かう貨客
船、嘉義丸が米軍の魚雷攻撃で奄美大島沖で沈没し、幼児から老人まで321人が命を落とした事件を唄にしたのです
(asahi.com マイタウン沖縄「禁じられた鎮魂歌、歌い継ぐ」2004年05月26日に記事あり)。

朝崎辰恕さんは加計呂麻島の花富(けどみ)集落で鍼灸師をされていた方でしたが、朝崎さんによれば、家に帰るといつもウ
タを作っていた音楽の素養に深い方で、若い頃大阪で音楽学校に通っていて、家にはバイオリンや蓄音機があったといいま
す。

嘉義丸沈没で子を失った母の治療に、父の辰恕さんは8キロの山道を通って往診していたとき、その母が、子を失って一人
で帰ってきた忸怩たる気持ちのなか、事の顛末を辰恕さんにつぶさに語ります。辰恕さんはその仔細を十節のウタに残しま
す。

「波間に響く声と声/共に励まし呼び合えど/助けの船の遅くして/消えゆく命のはかなさよ」(9番)

朝崎さんは、お父様がこのウタを標準語で作ったことが、このウタを世に広め、平和の大切さを伝えんとした気持ちからで
はないか、と思い至ったそうです。
お父様は島の集会所でこのウタを発表しますが、当局に禁じられ、戦後米軍からも禁止されてウタは忘られてゆきます。
朝崎さんは嘉義丸沈没で生き残った当のお母さんを島に訪ね、朝崎さんのお父様の作ったウタを復元して15年ほど前から公
演で謡われています。朝崎さんの父子二代の使命感ともいうべき、熱い気持ちで熱唱された「嘉義丸のうた」は、見回せば
会場のお客さんで涙を流していたお客さんが沢山おられました。この唄が、朝崎さんにとっていかに大切な意味をもった唄
であるかがわかりました。朝崎さんが沢山のお弟子さんを育てられているのは、一つにはこうした何百年もの歴史の一片一
片を歌い継いできた、ウタでしか伝えられない奄美の人々の大切な思いを後生の若い人に托してもらいたいからという思い
からであることがよくわかりました。

最後に公演の定番、「豊年節」と「六調」の手踊りを踊り、「ふるさと」をアンコールで熱唱されて、講演は満場の拍手で
終わりました。