書評:邱奎福著『現代中国風刺詩事情─戯れ謡で読むほんとうの中国』

2008-01-04

邱奎福著著『現代中国風刺詩事情─戯れ謡で読むほんとうの中国』東京・小学館、2007年 ¥1400+税



友人であり、職場の同僚でもある邱奎福さんが本を出されたのでご紹介します。

邱奎福著『現代中国風刺詩事情─戯れ謡で読むほんとうの中国』という本です。
邱奎福さんは、日本で中国語教育の教鞭をとるかたわら、実務通訳としてしばしば中国に帰り、中国社会の現実も熟知してい
る方で、普段のみかけはひょうょうとして笑みを絶やさない人ですが、実は眼光鋭くこんな戯れ謡も集めておられたのだな、
と思います。かつて南雲智氏(というより私の大学院時代の先生)が『中国「戯れ謡」ウォッチング』評論社(東京・論創社、
2000年)からこの種の戯れ謡本を出されています。また最近では中国共産党批判の台湾の評論家、黄文雄氏もこの種の本を出
しています。

本書は現代中国の世相が見やすいように配慮がなされており、幹部の腐敗や、ますます広がる経済的な格差、世代間の社会的
通念の落差、不条理な社会問題など、現代中国の痛いところを突いた選りすぐりの戯れ謡が載せられています。

たとえば中国で生きていくのに必要な「関係」(コネ)について


「關係」


有了關係 [上「告」下「非」]關係

没有關係 找關係

難[左「てへん」右「戈」]關係 買關係

辧事都得 憑關係


コネがあればそれに頼り

コネがなければ探し出す

見つけにくければ金で買い

事を運ぶにはコネにたよらねばならないのだ


という謡があります。権力がある人間はカネに頼り、権力がない人間はカネに頼り、権力もカネもない人間は関係に頼るしか
ない、というのは、ここ数十年中国でつづいている実情でもあります。「〈太子党〉(政府高官の息子達)は、汗も流さずに
大金持ちになれ」「火葬場に知り合いの人がいると、知人のだれかが亡くなった場合には朝一番に焼いてもらえる」(76-77
頁)などという解説がついています。焼いた骨が他人の物と混じらないように、そういった願いは切実なのではないかと思い
ます。


「没關係」


没關係没關係 有關係

有關係有關係 没關係

全憑關係


コネがないコネがない、大変だ

コネがあるコネがある、大丈夫だ

すべてはコネだ


という謡は、
「大丈夫大丈夫コネがある、大変だ大変だコネがない」と逆さに解釈も出来るという言葉遊びの上に成り立った謡で、中国伝
統の対句の面白さが生きています。それだけいっそうわけのわからない現実の不条理感が際だつというものでしょう(78-79
頁)。

本書の特徴は、中国語の原文と発音(ローマ字)を記し、韻を踏んだオチが分かるようになっています。これは資料性を保つ
のに有効で、中国語を知っている読者にとってわかりやすい配慮です。邱さんならではの洒脱かつ簡潔な訳も好感がもてるも
のに仕上がっています。

さて、このような戯れ謡本、内容からすると、邱さんは中国に帰るときに大丈夫か? ということが気がかりですが、いまは
この程度の諷刺の紹介は問題ないという邱さんの判断もあるようです。あまりにもどぎつい過激な内容の謡は掲載していない
とのこと、全体的に言論面でかつてよりもいい時代になったといえるでしょう(もちろん予断はできないのですが・・・)。

歴史的には、中国では朝廷が政治状況を民衆がどのように捉えているのかを知るために、この種の流行歌を収集してきた側面
もあります。邱さんも第一に取り上げられていますが、『詩経』の「大鼠」の謡が、民衆を搾取する支配者の横暴を謡ったも
のであることは有名です。今日でも共産党の機関誌である『人民日報』などでも、この種の諷刺詩が掲載されることもあり、
政府も批判すべきは批判すべきと考えている汚職問題などは、「民の声」として認知されることもあるといえます。

このような民の声の社会的位相もあって、このような戯れ謡文化も成立している訳ですが、基調は不条理な現実に向かっての
民草の嘆きであることは、いうまでもありません。

民草はといえば、皮肉を言ったり、諷刺をしたりするのですが、現実が皮肉や諷刺の通りであるわけですから、「笑えない」
戯れ謡が多いと思います。この種の戯れ謡は、ブラックユーモアではあるわけですが、「笑えない現実」を読者を再認識させ
る装置なのではないかと思います。「笑っていられない笑い」という逆説を、私はこの本を読んで強く感じました。あるいは
諷刺によって、日常から身を引き離し、現実を見つめる距離を獲得するともいうべきでしょうか。

私が個人的にこんな感想を述べてしまうのは、たとえば、かつて20年ほど前、中国に留学したときに、あいにくなことにカフ
カの『城』を持って行ってしまい、それを中国で読んでも、目的を果たすのになんどもたらい回しにされてたどり着けない、
らっきょうの皮むきのような不条理な現実となんら違和感がなく、「あたりまえじゃないか」としか思えなかったという体験
があるからです。

しかしどうでしょう、同じカフカでも『変身』のように、朝起きたら虫になっていたとします。これが中国だったら虫になっ
てしまったザムザ氏は、「没辧法」(「仕方ないなぁ」)と嘆きつつも、結局運命を受け入れてそのまま職場に出掛けてゆく
のではないでしょうか?。

中国で生きることは、いまなおやはりしんどい局面があることは事実です。うまくいっていた商売が、急に政府の命令で店の
立ち退きに出逢ったり、隣家の異臭をなんど言っても直してもらえず、裁判に持ち込んで表向きは「勝訴」でも、なんら改善
が義務づけられていなかったり(だからもう一度裁判です)、私の身の回りでもやはりそうしたことは生起することではあり
ます。そうした「しんどさ」をどう考えるかという点に、この本の戯れ謡たちは読み手を誘います。

「はじめは笑って、あとでだんだん笑えなくなり、最後には沈思黙考」
という本なのです。