書評:稲垣尚友『吐火羅国─針の穴から世界をのぞく』
東京・八重岳書房、1976年


2007-10-30

本書は九州と奄美大島とのあいだに14の島が並ぶトカラ列島について、その一つ平島に長年住み込んだ著者が、離島暮らしに
ついての詳細な観察と執拗な思考をつづけた記録です。
北から口之島・中之島 ・臥蛇島・(無人島・1970年まで有人島)・小臥蛇島(無人島)・平島 ・諏訪之瀬島 ・悪石島 ・小
島(無人島)・小宝島 ・宝島 ・上ノ根島(無人島)・横当島(無人島) と並び、行政は十島村です。この役場はどこにある
かというと、これらの島々のどこにもなく、鹿児島市にあり、連絡は村営の十島丸が四日おきにやってきて外来物資と人の移
動はすべて船に頼っています。
南の島に憧れ、移住した著者は、妻をも呼び平島に移住します。余所者ならではの冷静な眼で絶海の島々を観察した記録です。
著者が離島に観察者として入り込んでいるのは、隔絶した離島のなかで営まれる人々の生活から「裸の人間」、良きにつけ悪
しきにつけ、ありのままの、飾りのない、人間のありのままの姿を知りたいという、人間認識の動機からです。
書名の「吐火羅国」とは『日本書紀』に記載されている地名です。
島建ての神の伝承があり、島の山に神を祀る御嶽があり、人間が立ち入ってはならない聖の領域が「神ヤマ」として残され、
手狭な離島に額を寄せ合って生きている島民たちが、絶対平等の「マグミ」という共同労働の社会慣行を守って生きています。
浜の寄木一つでも、だれか一人だけが得をしてはいけないという不文律があり、島の総代のもとに、祭祀を司る神女ネーシた
ちや、神役たちもおり、これをもって著者はトカラの島々の一つ一つが、離島であるがゆえの「国」であると看破しているので
す。
いくつか興味をもったトピックがあります。以下は読書の際にとった備忘録です。

「民間信仰とその衰退」

中之島の旧港に神石があります。よく港の入り口に立つ海の神様の寄り石、つまり立神岩であると思われます。この近海は「七
島灘」と呼ばれる航海の難所です。かつて年貢船が出た後、御幣を貼ったこの岩に、太夫(神役)とネーシ(神女)が神楽をあげ
たそうです。ところが、防潮工事のために泥をかぶり、人も近寄れない状態になってます。
必要があれば神様を造るが、生活の足しにならないと、いつの間にかお払い箱にしてしまうという民間信仰のダイナミズムが
あることがわかります(60頁)。
小宝島の神社では、十柱の神々が合祀され、同一企画の神棚に神々が鎮座し、コンクリート造りの神様の団地をつくって、祭
祀の省力化が各島に四十年代以降急速に広まっています。
島から島民が引きあげた際の祭祀の問題は深刻です。
平島の隣、臥蛇島はがその島に当たります。有人島から無人島になるということは、島民が外地に移住すれば済むという話で
はもちろんありません。先祖代々生きてきた父祖の地との関係は絶ちがたく、とくに聖なるものとの関係性を処理しなければ
なりません。そして実際そのような関係性は、断ち切ることは不可能なのです。
島民は移住に先立って島の神々を一個所に合祠したそうで、立派な石塔、コンクリート造りの鳥居を造りあげています。とこ
ろが、神々がきっと喜んでくれると考えていた総代の期待を裏切り、なんと神は総代の顔を腫れあがらせるという神罰を与え
たのでした。島に不在となったネーシ(神女)の代わりに、総代は鹿児島まででむいて中之島出身のネーシに会い、お告げを聞
きます。
「八幡様をはじめ神々がアリアリとあらわれ、(中略)下のカワ(湧水)の水神様をそのままにしている」
ことから歯痛が生じたというのです(73頁)。総代は島の創始神である島立ての神を祭祀する責任があるので、島のすべて神様
を置き去りにして移住する場合、その神罰は総代が引き受けると考えられているのです。事実、総代は水神様も祭らず、島の
最高峰の御嶽(515m)にあるオタケの神も祭っておらず、合祀するのを省いていたそうです。
「何でも、おまえの体には、島中の神様がしがみついちょる」
と、平島のネーシも電話で告げたそうで、島を捨てる罪はすべて総代が担うことになるのでした(76頁)。

「流行病の猛威」

外界から隔絶した環境にあるということは、外界から持ち込まれた病気に対してたいへん脆弱であるということを意味してい
ます。
「今度の風邪も鹿児島から遊びに来た子供が風邪を持ち込んだのだそうだ。ちょうど島は稲刈り期で皆過労気味であったから、
あっという間に島中に蔓延した。
無菌地帯といえば、中之島でハシカが流行したときはひどかった。幼児といわず、大人といわず。ただひとりを除いて全員
がかかり、学校は臨時休校となった」(82頁)
十島村の北隣りにある黒島では、猛威をふるった疱瘡を鎮めるための疱瘡踊りというのもあるのだそうです。
外から持ち込まれる厄災として流行病は最たるもので、古老の話では、中之島では、五百人いた人口がアカバア(赤痢)が流行
したため、明治初年にはわずか九十人に減ったそうです。したがって、
「悪石島では、島外からの入船があると、まず一週間は沖合で碇泊させ、病菌の有無を確かめてから上陸を許している」(82頁)
のだそうです(現在無人島の臥蛇村も同じ)。
南島の島々ではどこも流行病の害が酷かったらしく、島民はその猛威に対して生き残った幸運な人たちの末裔なのです。これ
は、マラリアで廃村を多く出している西表島も同じです。

「限定された富」

共同体で獲得される富は限定されているという「限定された富」(G・フォスター)を作業仮説としてみると、平島の人々の考
え方の一端が分かるかもしれないと、私はこの本を読んで思いました。
エビ突きにはまる著者に、平島ではだんだん風当たりがつよくなり、日頃つきあっている青年も、「住民票はあるのか、漁業
権はあるのか」と問いかけ、心の中はエビが余所者にとられるという心配でいっぱいなのだそうです。
「一人前に扱うということは、共にしのぎを削って生きてゆくという意味と同じなのである」(94頁)。
余分な富などないという認識は、一方で病気や貧困で困難にある者にも平等に分け前を与えるという配慮ももっています。ま
た、マグミという共同労働組織では、労働に参加しなかった世帯も、収穫を得る権利があり、富の分配に徹底した平等の原則
があります(114頁)。臥蛇島では漁に出られない後家にも分け前をもらう権利があり、これを「与えの一丁」といっています。
貴重なサワラのサシミを、工事現場の傍らで広げながら、男たちは道行く人々に分けてやる、喜びをお裾分けするという気前
の良さも、富の配分にたがいにしのぎを削っているという現実認識と両立しているようです(98頁)。

「夜の酒盛りの意味」

「島民が酒を飲むのは、他に楽しみがない、という理由だけではない。島のひとつの運営方法なのである」(182頁)。
小さな島では、人々が顔をつきあわせて、表向きは協力して生きていかなければ皆の生活自体がなりたたないのです。でも小
さな島にあって、噂や陰口はいつか爆発して大喧嘩となることもしばしばあります。選挙の後などそのようなときです。しか
し、その喧嘩は、夜の飲み会の席でおこなわれ、酒の席でいったこととして朝にはきれいさっぱり忘れられているのです。
「一つの島に二つの世界があるようだ。昼のスメン(素面)の世界と、夜の焼酎の世界とである」(182頁)。
離島の共同体での小規模な生活を維持する機能として、夜の酒盛りと焼酎があるという見解は、この南の離島を見物に訪れ
た者ではけっして解らない離島の日常から生まれる酒の意味を示していて卓見といえると思います。

「妖怪」

以下は、興味をもった記述を箇条書きにしておきます。
海に尻から入るとカッパに襲われる。
盆踊りの十五日に漁にいくと、海坊主が出てきて人の足を引っ張る。精進のためになま臭いものは食べない。

「その他」

南の宝島はトカラのなかでももっとも暖かく、古くからサトウキビを生産している。
平島や臥蛇島では竹が豊富なので、黒糖と物々交換する。茶ジョケといって、お茶うけに黒糖が出される(166頁)。
島ではなにかにつけてチマキをつくる。祭りには必ずチマキが出る。餅をつき、カッサの葉でくるみ、藺(い)草で縛る。わず
かに糖分をきかしてある(166頁)。
臥蛇島の学校のあった裏山は勝手に木を切ってはならない「トメヤマ」で、ここはかつて島の中心であったと言い伝えられて
きたが、本当に校庭拡張工事の際、石器が出てきて、昔語りが実証されたそうです(63頁)。
茶をすする際、最初の一呑の一滴を火の神様に捧げる。鹿児島に引きあげた古老が、電気ごたつの合板の隅に茶の一滴を垂ら
し、目を閉じて火の神に祈っていた(64頁)。