読書メモ:「みちの島」─『日本残酷物語』第二部「忘れられた土地」の書く十島村と三島村

2007-11-04

鹿児島から奄美・沖縄に向かう海に浮かぶ島々は、俗に「みちの島」と呼ばれています。これらの島々は十
島村の行政区域に入るトカラ列島、つまり飛び石のように十四の島が点在している島嶼地域と、大隅半島の
沖合に浮かぶ三島村の行政区域に属する三つの小島、黒島・竹島・硫黄島があります。これに屋久島・種子
島・口永良部島を加え、奄美大島を入れて、「道の島」鹿児島〜奄美ルートがあるといってもいいでしょう。

これらの島々は日本人にもっとも表象されにくい土地です。たとえば、熊野がもつ自然の豊穣さと、歴史伝
承や信仰の豊かさが、ある意味で日本らしさや、日本の精神風土の原点として賞賛されるのに対し、それと
相反する困難さと、無関心に置かれた「忘れられた土地」であるといえます。これらの土地に注目すること
なしに日本の風土を考えることは、日本をあまりに単純化して考える恐れがあることはいうまでもないでし
ょう。

先日、高校の同級生だった文芸評論家の助川幸逸郎さんと沖縄・奄美料理屋で話をしていて、助川さんが熊
野を小説の背景に持つ中上健二が、言語が豊饒なのは当然で、むしろ東北の貧困さなどをもっと考え直すべ
きではないかということを言っていましたが、私はそれならトカラ列島も熊野の対極だというようなことを
言って、それで今回十島村と三島村について書いているのです。


ともあれ、これら「忘れられた土地」の非表象性を問題にすることの必要性は、今日にあってなお強調され
るべき根拠を失っていないと考えます。

波照間島、与那国島といった日本最南端、日本最西端の島がしばしば周縁性が強調され、日本列島を表象す
る際の不可欠な「辺境」として登場しますが、トカラ列島や三島村は、そのような辺境性すらもっておらず、
端的な無関心にさらされているといえます。ただ唯一三島村の黒島については有吉佐和子の小説『私は忘れ
ない』があり、映画化もされていることを付記しておきます。

いずれにせよ、これらの「みちの島」は、南島に対してしばしば抱かれやすい豊饒さというイメージとも対
極的で、「南島文化論」的にみても、その一般論化を防ぐに不可欠な「場所性」をもっていることも強調す
べき点だと思います。

先日稲垣尚友著『吐火羅国』(東京・八重岳書房:1976年)を取り上げ、列島の人々の生活を一瞥してみました。
この後トカラを知るための本として、村教育委員会の手になる『十島村誌』(十島村誌編集委員会編、十島村、
1995年)、長期取材の記録である『美女とネズミと神々の島─かくれていた日本』(秋吉茂著、河出書房新社:19
64年)(この本は松竹が映画化しようとして現地を訪れ、ちょっとした─島(悪石島)にとっては大きな騒動が起き
たことがあります) 、また 研究書として『トカラ列島の民俗誌』(下野敏見・十島村役場、第一書房:1994年)な
どを随時取り上げるつもりです。

今回は『日本残酷物語』第二部「忘れられた土地」(下中邦彦編、平凡社:1960年)から、「みちの島」の一章を、
『吐火羅国』を補足する意味であげておきます。


「カツオ漁」

鹿児島〜奄美の間の海は本来豊饒な漁場に恵まれていました。 かつて旧藩時代、カツオ漁が盛んで、鰹節が産
業として栄えていたそうです。ところが、九州から来る遠洋漁業の船に漁場を荒らされ、かつて一年間に一万八
千尾も釣り上げていたのに、その20分の1まで減少したそうです。大規模な内地の遠洋漁業に勝てず、唯一の換金
物を失った島は、「海に背を向けて生きる」という矛盾したかにみえる生活をせざるを得なくなります。
「島の人々は〈水属の都城〉といわれた海にかこまれながら、海に背を向けて暮らさねばならないのである」(68
頁)。


「火山島」

諏訪之瀬島(十島村)文化十年(1813)に火山大爆発が発生し、以来無人の島になっていたことがあります。村
が2個所、寺も2個所、戸数100戸以上が一朝にして、灰の下に埋もれます。その後、明治十七年にあらためて爆発が
起こります。


「ネズミの害」

「みちの島」は、ネズミの島でもあります。ネズミはササに実のなる年に繁殖し、島を食い尽くすそうです。
黒島(三島村)では、1949年、沖合を魚群が徹るような物音がしたが、それは魚ではなく、ネズミだったのです。ネ
ズミが海を渡って大量に上陸してきたのたそうです。想像すらできません。
「足でも泳ぐが、尻尾を使ってなかなか上手に泳ぐそうです。奴らはおたがいに仲間の尻尾をくわえ、隊伍を組んで
泳ぎ渡ってきました」(65頁)
という信じがたい証言が記されています。


「悪疫」

一番恐ろしいのは悪疫の流行でしょう。一度悪疫が流行ると島の半数以上が命を落とすことも珍しくなかったそうで
す。
三島村の一つ、硫黄島の悪疫流行の歴史は以下の通りです。

延享年間(1744から1748)─疱瘡が流行。380人の島民の半数が死亡。

天保四年(1833)正月、腸チブスが流行。死者30人あまり。

安政六年(1859)、コレラの流行 30人死亡。

明治十三年 疱瘡の流行、17人死亡。(70頁)

硫黄島は、その名の通り硫黄を産する島です。この硫黄を買い付けに来る外来の商人のなかに病人がいると、病気が島
内に感染することになります。
十島村の場合でも次のようにいわれています。
「だから十島村の人々は外から悪疫がもたらされることを極度におそれ、外来者がおとずれたあとで、かならず一村あ
げて村はらいをしたといわれる」(70頁)。
民間療法としては、赤痢のときには米の粥を食べれば病気が抜ける、コレラや赤痢にはお灸がよくきくなどの対処法が
信じられていたそうです。
宝島(十島村・トカラという地名は本来宝島と小宝島を指す)では、よそから船がつくと、その日か翌日に、各戸が仕事
を休み、飯を藁に包み、それぞれ門口にかけて病気祓いのまじないとし、もし船に病人がいた場合、三日間仕事を休み、
各戸一合ずつ米を出して島の神に祈願したそうです。

ときには船を追い返すこともあったこれらの島々は、子供たちの作文はなにを書かせても船のことばかりという態にも
かかわらず、外来の者を警戒し、歓迎せずに忌み嫌う心性があるということになります。

「みちの島」にもかかわらず、交通機関の発達とともに、かえって飛行機や船に素通りされ、国ではなく、村営の連絡
船(十島村)や、村営の空港(三島村・現在では閉鎖)に頼らねばならないという不条理や、悪疫や人口流出による人口減
少と村の文化の衰退、ついには臥蛇島(十島村)のように、島民が離島せざるを得ない状況、など、「みちの島」の離島
苦は並大抵のものではないことが解ります。
外来のカツオ漁船に漁場を荒らされ、海ではなく、島内の土地での生産に活路を見いださざるを得ない状況にもかかわ
らず、各島それぞれ生産を阻害する要因が数多くあります。竹の根がはびこり、焼き畑に頼る竹島(三島村)や、悪石島
(十島村)などのネズミの跳梁する環境、水が豊富で開墾可能な土地も広い中之島(十島村)でさえもハブ・ヤマビル・蚊・
アブの害は多く、そもそも台風が年に数回でも来ようものならば、一回の台風は四、五日から一週間も停滞し、農作物
は台風の運ぶ海の潮と、大風のためになぎ倒され、枯死するのです。

外来の者を警戒する心情は、たとえば雲南省西北部、梅里雪山の麓に生きる村民が、自存する生態環境の調和と均衡を
壊す存在として外来者を語る伝承をもっていたことなどにも現れています。
同じ雲南省西北部のミャンマー国境のイラワディ河上流域、独龍渓谷に居住するトールン族を1960年代に、社会調査の
ために調査隊が訪れたことがありました。
雲南少数民族の神話伝承を研究されている雲南大学の李子賢先生からきいた話ですが、このとき、何日もの山越えで、
李子賢先生の先生が、激しい熱に冒される病気になりました。
ところが、現地の村民たちは病気の先生に魔物がとり憑いていると考え、畏れ、村に入れてくれず、道に置き去りにす
るようにいったといいます。このときは李子賢先生たちがとりなして、置き去りだけは防ぎ、李子賢先生が病人を負ぶ
って旅をつづけたそうです。しかし、置き去りにするという処置は、現地に病気の感染を防ぐという意味では故な
きことではないかもしれません。