『ALWAYS 三丁目の夕日』(東宝・2005年)─「汝自身の内なる死者を哀悼せよ」


2007-11-6

『ALWAYS三丁目の夕日』は、ある一時代の日本を徹底した映像のリアリズムと救いのあるちょっと気の利かせた日本人なら
ではの人情味あふれた「お伽ばなし」のストーリィーで語った映画です。ですから、これがアジア映画の一つであることは、
間違いないところでしょう。

私は、『寅さん』シリーズのもつ予定調和的な約束事の世界を観るのと同じくらいの罪悪感を、この映画を観ることに感じて
きました。西岸良平さんの原作も、あくまで人に優しく、読者にも作中人物にも優しく、徹底した不幸などないかのようだか
らです。原作の漫画も、ほとんど買っています。でも、わざと読まないようにしています。
それに私は、私がどれほど幸福な幼年時代を過ごしたかを知っています。傲慢な言い方かもしれませんが、他人について、そ
の人は私ほど恵まれた人生を送ってきたわけではないであろうと考えることが、私にとっては人間関係を取り扱う際の一つの
原則にすらなっています(この私の人生の原則についての当否はここでは問いません。他人目には鼻持ちならない原則とは思
いますが、他人につねに最大限寛容であろうとすることが、その原則の結果として導き出されています。ただし、だからとい
って、この原則が良心の命ずるままに行動することを妨げるものではないと考えます。当然ある種の場合では、良心の方が優
先されて然るべきでしょう)。
私は、中学生で東京都区内の山の手にある故郷を離れ、大学生で祖父と祖母のもとに一時住み込んで以来、気がつけば二十年
近くの年月を、故郷を訪れることを自分に禁じて来ました。過去の完全無欠な幸福の記憶に回帰してはいけないと思って生き
てきました。じつは先月、同じ生まれ故郷の出身である母の代わりに生まれ故郷に行く必要があり、ビデオカメラ片手に、勇
気を出して生まれ故郷にいってみたのでしたが、そこには見る影もなく変わり果てた故郷が広がるばかりでした。故郷は、現
実には存在しなかったことを、うすうす感づきながらも、ついに認めざるを得ませんでした。

この映画に描かれた時代は、昭和三十三年、映画の鈴木一平少年の世代、つまりいま五十代の人たちの少年の頃の世界です。
原作に書かれた昭和、映画に描かれた昭和、それらの昭和の風景に身を置くことの予定調和の居心地の良さは、しかし原作や
映画の台本のせいではなく、戦前が天皇陛下への求心力で動いた時代だとすると、戦後が人々のまなざしの上にそびえ立つ、
東京タワーへの求心力にとってかわる高度成長の時代だからでしょう。「金の卵」たちは富を産み、鈴木オートは「三種の神
器」を揃え、茶川さんは疑似家族を幸福裏に組織するのです。その幸福は、一応の保証があると考えられたのでした。もっと
もその裏には朝鮮戦争での半島の人々の苦しみ、水俣病の患者さんの生き地獄のような苦しみ、のちには三里塚の農民の戦い
など、多くの犠牲があったのですが・・・。

しかしながら、この映画が観るものにいい知れない感慨を呼ぶのは、この映画のストーリーが、それを観ている当事者のオン
リー・イエスタディで、しかも誰もが経験した一つ一つの物語や詩の断片をちりばめて編みあげられているからです。
はじまりの場面でのゴム動力の模型飛行機が羽ばたくときの胸の鼓動、オート三輪の荷台に誇らしげにつかまって、バタバタ
と路地を走った思い出、父の運転するテントウムシことスバル360に乗って高速道路を目も眩むばかりのスピードで走った
こと、駄菓子屋にぶら下がるおもちゃの数々がいかに光り輝いていたかということ、となりの美しいおばさんが作ってくれた
カルピスが、どれほど甘く、柔らかい味だったかということ、誰しもが、美しい家族の物語と、一片一片の日常が紡ぎ出す詩
をもっています。

レトロなものに、年月を経て濾過された記憶とともに輝く普遍的な美があることはいうまでもないのです。しかしそれは現実
の生活の苦しみ、働いても働いても一向に豊かにはならず、成功の可能性も奪われた、家族を抱えてひたすら暗夜を漂流する
かのごとき、将来の見えないこの今の世界を切り拓く「切っ先」にはけっしてなりえないでしょう。

その点でも、「昭和ブーム」は朝鮮戦争と水俣病の忘却の上に成り立っている以上に、現実逃避的なイデオロギーでもあるの
です。「昭和ブーム」は、けっして全面的に肯定されるべきではないのです。

「しかしながら」「さりながら」「それにもかかわらず」、これらの逆説詞を三度唱えることが、以下の記述をつづけるに際
しての呪文となります。願わくば以下の文章が許容されますように・・・。

やはりこの時代、世紀末後のこの世界、この社会に生きることは、誰しもが疲れ果てているのではないでしょうか。
人がどうしようもなく後ろ向きに生きること、前を向いて生きるより、その方が確実に楽しいということがあり、それで救わ
れたような気になるならば、過去に拘泥することは許されてもいいのではないか、と思わないではいられないのです。

「昭和とは何か?」と問われれば、このように答えるべきでしょう。「それは私の内なる死者なのです」。
かつて空き地を元気いっぱい駈けまわっていた他ならぬこの私は、もうそのままの姿ではこの世にはいないのです。ですから、
それは、かつての自分こそは、亡くなったお爺さん、お婆さんに次いで、ご先祖様という位牌の中の抽象的な存在より、もっ
とも身近な死者なのです。そのような死者であるような過去の私を、切なく想い、その「死」を悼むことは、先祖を切なく思
うことと同じく、大切で貴い行為なのではないのでしょうか。
それを一言で表現するならば「汝自身の内なる死者を哀悼せよ」ということです。

あの時代、あの日、あの時を、精一杯生きていた人たち、私でいうならば「魚三喜」さん、「平田薬局」さん、「幸楽泉」の
風呂屋さん、「池田パン屋」「金寿司」「松本酒屋」、平松外科、中島医院、そして近所のおじさん、おばさんであった某有名
女優や、某有名俳優などの人々でありました。誰もが一所懸命に生き、そして、自分の生だけでなく、他人の生に、つまり他
ならぬただの子供であったこの私にさえも、あれほどの愛情を注いでくれたのでした。私自身が、どれほど恵まれた、幸せな
幼年時代を送ってきたかということに、これらの人々の恩恵を負っているということは、疑いもないことです。

このような絆の思い出に支えられている以上、「昭和ブーム」はそう簡単には終熄しないことでしょう。

「汝自身の内なる死者を哀悼せよ」、このようなことに、昭和への回顧の行為を意味づけること、その結果が生産的であるか
どうかは問いません。もしかしたら、私は、今の自分と異なる他の自分でありえたかもしれない、そんな想像力をもってみる
のも、少しでも「内なる死者」を生かすことにつながるかも知れません。それが今の私の生きる力につながるのならば、昭和
に立ち戻ることも許されていいのではないでしょうか。

最後に告白します。私は、昭和三十年代後半から四十年代前半にかけての井の頭線沿線に近いあたりの郊外を、わずか300o
×750oの板の上に再現した昭和の商店街と住宅街を、とある駅前を中心に再現した情景模型を所有しています。
私は、泣きたいほどの物狂おしさで、それらを再現しようとしたのです。そこには、空き地で宙に舞う模型ヒコーキを追う半
ズボン姿の私がいるのです。縮小された昭和と名づけられた世界の断片、その完結した箱庭に、私は私の生魂(イキマブリ)を
はっきりと見てとることができるのです。