雲南省怒江渓谷の旅


  2007-12-07



1.三江併流地域と怒江渓谷


この記事は2004年の8月に、雲南大学中日比較民族研究センター主催で行われた日中比較民俗シンポジウムに参加した際の旅
をまとめたものです。8月15日から19日までの旅程でした。
この旅は、ミャンマーを流れるサルウィン河上流部、中国名怒江を北上する旅で、雲南省怒江リス族自治州の州都、六庫鎮で
のシンポジウムのあと、怒江沿岸の渓谷づたいにひたすら車を走らせました。日本側参加者は20人近くいたと思います。あと
は中国側研究者が参加したほか、雲南大学関係者、怒江リス族自治州政府の職員の方の手厚いお世話を頂きました。
はじめに、怒江リス族自治州と三江併流地域について基礎的な解説をしておきます。

[怒江リス族自治州と三江併流地域]

雲南=チベット省境地帯は、中国のチベット高原に源を有する三つの川、金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川上流部)、
怒江(サルウィン川上流部)があり、チベット高原から雲南省北部の迪慶(ディーチン)蔵族自治州及び怒江リス族自治州を横
断して平行に流れています。 この地域は、三江併流(さんこうへいりゅう)と呼ばれ、1,698,400haに及ぶ広大な地域があり、
14の保護区が含まれます。動植物層が豊かで、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されています。

概要をデータで示しますと

動物=世界の動物の内25%(中国国内においては50%)の個体が存在。791種、内198種は中国固有種、80種は政府の絶滅危惧種
に登録。
植物=約6000種が確認されており、内2700種は中国固有種。33種が国家レベルで保護。
民族=16の少数民族(チベット族、ナシ族、リス族、イ族、ヌー族、トールン族など)計300万人が住む。

ということになります。

なお、怒江の西は高黎貢山を隔てて独龍河(イラワディ河上流部一支流)も流れているので、この地域はその意味ではじつは
「四江併流」地域といってもいいのです。

三江併流地域は、ヒマラヤ山脈の東端に位置し、インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突によって生まれた巨大な褶曲地帯です。
このチベット=雲南にまたがる山脈を「横断山脈」と呼んでいます。
金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川上流部)、怒江(サルウィン川上流部)の三つの河は、ヒマラヤ山脈東端部をチベ
ット=雲南に縦走する横断山脈の激しい起伏が織りなす険しい雪山に互いに隔てられています。

たとえば、

金沙江と瀾滄江のあいだ=雲嶺山脈(最高地点は玉龍雪山で5596m)
瀾滄江と怒江のあいだ=怒山山脈(最高地点は梅里雪山主峰6740m)
怒江と独龍江のあいだ=高黎貢山(最高地点5128m)

さらに独龍渓谷の西部は担当力卡(タンタリカ)山で、主峰4140mを隔ててミャンマー側と接しています。

このように、横断山脈中の各山脈の稜線は互い交差せず、瀾滄江渓谷、怒江渓谷、独龍渓谷など、深く連綿と細長い峡谷地帯
をつくりあげているわけです。瀾滄江と最短距離では、瀾滄江と金沙江は66キロ、瀾滄江と怒江はわずか19キロしか隔ててお
らず、これを歩行や騎馬によるほか、横断することは極めて困難で、これらの峡谷地帯は互いに独立しているのです。たとえ
ば、怒江渓谷と独龍渓谷は、90年代半ばにようやく自動車道路が開通し、郷政府レベルで最後に自動車の通れる道路が開通し
た地域なのです。

雲南省の地形からいえば、三江併流地域は、まるで扇の要のように、山脈と渓谷が併走し、瀾滄江でいえば、海抜2000mから
一気にくだって、広がる扇の端の部分、たとえば、南部のシップソンパンナー地区(西双版納タイ族自治州)では海抜わずか5
00mとなります。瀾滄江や怒江はこのような高低差からみても、中国有数の急流であることがわかります。

[怒江渓谷]

怒江渓谷は主に怒江リス族自治州に展開する渓谷です。東には怒山(梅里雪山=主峰6740m、碧羅雪山=4000m級)の山系を
隔てて瀾滄江と併流し、西は高黎貢山山脈(主峰5128m)を隔てて独龍江(イラワディ河)の流れる独龍渓谷やビルマ北部(ミ
ッチナー方面・第二次世界大戦で水上源蔵少将が自決した激戦地)などと境を接しています。

怒江リス族自治州の州都である六庫鎭近辺では、怒江の河床の海抜はわずか800mで、亜熱帯気候に属しています。その両側に
つづく切り立った山脈は平地などほとんどなく、怒江リス族自治州は80%が斜面です。山腹の急斜面を点々とリス族・ヌー族
・チベット族・ペー族などの少数民族の村落が点在しています。村々は海抜800mから1500m位のあいだに位置しています。

気候の特徴としては、夏が長く、冬がない。一年に三つの季節しかなく、二月から四月中旬までが春季、約七十五日。四月中
旬から九月下旬までが夏季、約一百九十日。九月下旬から翌年の二月初旬までが秋季であり、おおよそ百日である。年平均気
温は15.1℃である(蕭迎主編『雲南民族村寨調査:リス族──瀘水上江郷百花嶺村』 昆明:雲南大学出版社、2001年:14-15頁)。

怒江渓谷に住む民族はいずれも広い意味でのチベット系民族です。かつて中国の西北高原から移動してきた歴史があり、彼ら
は平地には居住せず山地での生活を好みます。

なお、かつてビルマルートを遮断すべくビルマから雲南に進出した日本軍は、怒江の東岸まで進出しており、大戦末期、拉孟
(松山)、騰越の二個所で玉砕戦となっています。怒江リス自治州でも虐殺など日本軍の被害にあった村も多く、戦禍を被っ
た歴史があります。



2.六庫鎮


今回の旅は、怒江リス族自治州の州都、六庫鎮で開催される学会に参加することがまずもっての目標でした。参加者は雲南省
の省都、昆明からバスで高速道路に乗り、西へ西へと向かい、大理ペー族自治州の州都、下関鎮まで四時間半の道程を移動、
雲南省第二の湖洱海のほとりのレストランで食事をしました。大理ペー族自治州は、かつて唐代の南詔国、宋代の大理
国があった土地で、かつての王都のあった大理古城鎮の城内に、私の雲南の自宅があります。私はあらかじめ自宅にいました
ので、自宅から参加となりました。

主催者の雲南大学教授、李子賢先生と再会し、通訳も兼ねてスタッフのマイクロバスに乗車しました。
 雲南省西部は、このさき、ミャンマー国境の瑞麗まで一級国道がつづいています。かつては石畳の道をゴトゴト走っていく
しかなかったのですが、いまは立派な高架橋とトンネルが山脈を横断して保山までつづいています。我々はその手前、瀾滄江
のみえるところで高速道路をおり、瀾滄江上を北上しました。

瀾滄江は、雨季の最中の九月では、もっとも水量の多い時期で、泥色に濁った河水が滔々と流れていました。ここから、大理
州雲龍県に入り、銅鉱山で知られる漕澗に出ました。最近は国営企業の縮小化のあおりを受け、この地の銅山もリストラが進
んでいるようです。
漕澗からは山路を谷間を縫うように走ります。深い緑の森林がまだまだこのあたりは残っていて、山羊の放牧がみられました。

六庫鎮は、怒江の岸辺のわずかばかりの平地に造られた新しい街です。海抜が800mと低地にあるので、九月でも暑いのですが、
河辺の街でなかなか眺めはよい街です。現地のホテルに入ってから、早速街を散歩してみました。対岸には丈夫な吊り橋があ
り、人の往来もにぎやかでした。

まずは街の市場にいきました。ここは日用雑貨、食糧などを売っているところで、現地で獲れる魚や野菜などは、まずはこの
ような市場にいくと観ることができます。
雲南の他の地の市場と違うところは、鮮魚売り場で、ナマズが大量に売られていました。もちろん怒江の魚です。かつては裂
腹魚など、珍しい魚も沢山いたといいますが、外来の漢民族が、爆薬などを使った乱獲で、だいぶ魚も減ったと聞きます。

私はここで水パイプを買いました。7元(1元=15円)です。簡単なプラスチックの筒の底に水を入れて、吸い口から息を吸い
込み、刻みタバコの煙を濾過して吸います。ニコチンを濾過し、煙も冷えておいしいです。タバコは雲南第一のタバコの名産
地、玉渓産の「刀煙」(文字通り刻みタバコの意味)を大量に買いました。真っ黄色のたいへん良質な葉で、一箱2.5元と、たい
へん安価でした。

市場では、衣料品売り場が面白いです。リス族の民族衣装があり、さっそく一着購入しました。女性用のもので、350元ぐらい
だったかと記憶しています。紫を基調とし、貝を連ねた肩掛けと、同じく貝を連ねた黒いフェルトの頭飾りが特徴です。貝は、
内陸の雲南省では海がないために漢代から昆明の地にあった滇国でも貝を貯めた青銅器が発掘されています。雲南では
ベトナムやミャンマーから手に入れた貝が、いまでも貴重財としての意味から、服飾品の飾りになっています。

この街が雲南省の他の街と異なるところは、街のところどころにボーガンを売っている露店があり、矢も簡単に手に入れるこ
とができるということです。このあたりの民族は、リス族もヌー族も、みなボーガンの名手です。民族の勇敢さのシンボルで
す。
じつは今回の学会では、土産に一人一本ボーガンの玩具が支給されたのですが、意外に飛距離はあって、たいへん危険極まり
ない代物でした。万が一、つまらない発表をした人がいたとして、抗議の意味を込めて矢を放つことだけはやってはいけませ
ん(←当たり前です)。



3.リス族について


学会二日目は、六庫鎮から5キロほど離れたリス族の村、新華村に行きました。海抜1000mぐらいの山の斜面にある村です。

怒江リス族自治州の民族構成は、総人口45.8万人(1997年)のうち、少数民族97%、リス族:51.04%・ペー(白)族:28.6
%・ヌー族:5.69%・プミ族:2.93%・トールン族:1.17%という内訳になっています(雲南百科全書編纂委員会編『雲南百科全
書編纂委員会編』1999年:159頁)

リス族は、金沙江・瀾滄江・怒江流域の山地に住む山岳民族で、ミャンマー・タイ北部にも居住するチベット・ビルマ語族イ
語支の民族です。人口は、57.4万人(1990年)。唐代の西南少数民族について書かれた書籍樊綽(はんしゃく)著『蛮書』に「栗
粟」と表記されます。「リス」「リスパー」が自称であるが、「高貴な人」の意味(斯陸益『リス族文化大観』昆明:雲南民
族出版社、1999年)。「リス」「リスパー」が自称ですが、「高貴な人」の意味です。タイ北部のリス族は雲南省から移動し
た人たちですが、この地ではリス族のプライドの高さはしばしば指摘されるところです。名誉心の強さが有名です。

怒江リス族の生活状況を簡単にまとめておきます。

宗教:プロテスタント(1930年代より教会など県内に建立)
農業:トウモロコシと水稲が中心で、小麦も主要農産物。大豆・ソラマメ・エンドウマメに、ソバ若干。ジャガイモ。主に水
稲と小麦、豆類の二毛作。
手工業:紡績(麻布)・竹細工(椀・匙・杯など)・トウモロコシの焼酎。
狩猟:ボーガンを使って狩猟。
食事:白米やトウモロコシ粥など。

蕭迎『雲南民族村寨調査:リス族──瀘水上江郷百花嶺村』 (昆明:雲南大学出版社:2001年)に六庫鎮のある瀘水県のリス族の
村の民族誌があり、本書がこの地のリス族の状況を知るに適した一冊としてお勧めしておきます。



4.新華村訪問とリス族の法術


学会のツアーで、まず六庫鎮郊外の山腹にある新華村につきました。山の斜面にいっぱいのトウモロコシ畑があり、丘の上に
木造の民居が集まっています。
村の入り口に、黄色の袷着を来た村の女性たちが、歓迎の唄を謡ってくれます。けれども、この村も日中戦争のときに日本軍
の掃討に逢い、大虐殺があった村です。そうした歴史があるにもかかわらず、気持ちよく接待していただいたわけですが、い
かばかりの気持ちであったろうと思います。

村はほとんどの方がプロテスタントで、教会があります。教会にはローマ字が書いてありますが、これは宣教師が発明したリ
ス族の音標文字です。それ以前、リス族は同じイ語支の民族であるイ族やナシ族とは違って、民族の文字をもってはいません
でした。

この村で昼食を頂きました。トウモロコシのお粥は、かつて水稲が導入される以前、一番の主食でした。とても美味しかった
です。お酒はそんなに強いものではありませんが、どこへいっても呑まされるので、たいへんでした。現地の方と杯をひとつ
で共に同時に呑む干す同心酒という飲み方なので、断れません。

夕方は、新華村の麓で、リス族の出し物を見学しました。

リス族青年のキリスト教合唱団の「蛍の光」「清しこの夜」の合唱は、素晴らしいものでした。五つくらいのパートを各自が
それぞれのメロディーで朗唱するのです。キリスト教がもたらした賛美歌は、少数民族の歌謡の伝統のうえにしっかりと根づ
いているのでした。
そのほか、ウクレレ状の弦楽器で、滑稽に歌う歌唱や、リス族ロックバンドの演奏など、たいへん面白いものでした。

今晩の見物は、リス族の法術の実演です。

リス族では、シャーマンは、「ニパ」というのですが、刀のはしごを登ってゆく儀式をしてくれました。漢語で「上刀山」(サ
ンタオサン)といいます。大理白族自治州のペー族も、天神祭祀にこの習慣がありました。竹製のはしごのしたには酒があり、
これではし
ごを清めてから、おもむろに刀の刃のうえを登ってゆきます。

チベット系の山岳民族は、旧暦6月24日の火把節(たいまつ祭り)の習俗にみられるように、天との交感、天への信仰が強い民
族です。この儀式も2月8日のリス族の祭典には、中心的な役割を持った行事で、シャーマンが人々の願いを天に伝えるのです。
ただ、この地ではキリスト教との関係がどうなっているのか、わかりません。

また、リス族のシャーマンによる火渡りも行われました。これは日本の山岳宗教である修験道の山伏も行う修行ですが、シャ
ーマンの実力をみせるために行われるものです。山谷に響き渡る銅鑼の音とともに、一面に火で燃えさかる炭のうえを、平然
とピョンピョン跳ねて渡ります。また、火で熱された鋤を手にとって、舌でぺろっとやる人もいて驚きです。

この種の法術では、かつて煮立った鍋に手を入れて、やけどをした者を犯人として判断する神判が行われていました。
これを漢語で「撈油鍋」(ラオヨウコゥ)といいます。それも仕掛けがあり、シャーマンは火傷をしないように、一見水が沸騰
しているようにみえる工夫をしているのだとは、この学会に賓客として招待された伊藤清司先生(慶応義塾大学名誉教授、2007
年逝去)のお話でした。
古代日本のクガタチ(盟神探湯)の習俗とまったく同じ方法です。

なんと新華村では、50年前に最後の「撈油鍋」があったのですが、このとき、容疑者はみんな火傷をしたそうで、誰が犯人だ
かさっぱりわからなかったと聞きました。笑うに笑えない話ではあります(香港映画でイ族の奴隷制度を扱った映画『天菩薩』
に、神判のシーンがあります)。



5.溜索(人間ロープウェイ)


学会4日目は、移動日で、六庫鎮からひたすら怒江渓谷を北上します。福貢県、貢山トールン族ヌー族自治県の県政府所在地
である茨開鎮まで移動しました。

険しい峡谷地帯ですが、現地の少数民族の生業転換のため、焼き畑や森林伐採も禁止されているので、緑茂れる美しい森林地
帯です。雨季で濁った泥水が急流を流れる怒江の岸辺には、水田が広がっています。その上の丘には、傾斜30度ぐらいの土
地に、リス族とヌー族の住居が点々と、六、七戸肩を寄せるように点在しています。ただし、住居は木材をつかわない煉瓦建
てのものに転換させられています。これを建てるときには政府の援助があります。ただ、まだまた藁葺き、竹編みの壁、高床
式といった伝統式住居も、ところどころにみられはします。

福貢県の県境で橋を渡るとき、福貢県の文芸工作隊(接待専門の芸能集団)の女の子たちが唄を謡って歓迎してくれました。
ここでやはり同心酒をしなければなりません。

渓谷地帯の名物は、溜索です。

溜索とは、橋の代わりに渓谷の両端をロープで通して、そのうえを滑車などで滑って渉るものです。河の両岸から互いに高低
差をつけて二本ロープを引くものが多いです。平行に引いた物もあるのですが、これは河の真ん中から自力ではい上がらなけ
ればなりません。

現地の人たちは、自分用の滑車をもっていて、どこにいくにも身につけて、勢いよく河を渉っていきます。これを忘れると家
に帰れなくなるからたいへんです。鋼鉄の索のうえをブーンと勢いよく音を立てて渉ります。

溜索は、北は四川省西部のチベット族、チャン族、四川南部のイ族、雲南西北部のナシ族、リス族、ヌー族、トールン族など、
チベット系の民族に広く利用されている交通手段です。今でこそ鋼鉄のワイヤーで出来ていますが、かつては竹編みや藤蔓な
どで出来ていて、瀾滄江上流の渡河地点であった溜筒江村のチベット族の方に取材をしたところ、竹は山の高いところにいっ
て取ってくるのだそうで、村人たちで力を合わせて編み、ロープにするのです。これにバターを塗って滑りやすくし、そのう
えをU字型の木片を掛けて滑ったとのこと。一本のロープで半年ぐらい持つとのこと、もしも河に落ちた場合、この村は川沿い
の低いところにあるので、馬だったら泳いで岸に辿り着けるというのです。チベットから雲南の間を往来する荷馬キャラバン
は、この地点でかならず馬と荷物を溜索に括りつけて渉る必要がありました。

溜索は、たいへん簡便に河を渉ることができるので、二十一世紀内にも生き残っていくと思います。怒江ではところどころ常
にこの溜索があり、現地の人の交通に欠かせない道具になっているのです。



6.茨開鎮─民族間交易について


この日の晩は、貢山県独龍族自治県の県政府所在地である茨開鎮に泊まりました。
宿泊所は県政府招待所で、県知事の方の御挨拶を受けました。トールン族の方です。トールン族は、ここからさらに高黎貢山
の4000mに近い山脈を越えなければならず、今回は見送らざるを得ません。

茨開鎮は、公路沿いに通り一本左右に商店が建ち並ぶという感じで、中央政府の援助もかなりあるのか、ある程度の感じる国
境近くの街です。民族交易の街で、独龍渓谷にいく道と、丙中洛に行く道のジャンクションに当たります。交通の要衝として
ここが県政府所在地になっているので、わずかテニスコートほどの土地を除いて、べつにここに平地がある訳ではありません。
完全に山の斜面に位置した街なのです。

1960年前後、独龍渓谷の開発で、援助団が馬幇(荷馬キャラバン)を連ねてトールン族の援助にいきました。このときに茨開鎮
はようやく繁栄しはじめるのです。

たとえば独龍渓谷のトールン族の人たちは、11月から4月近くは雪で渓谷から出ることはできませんが、夏にはこれまであつ
めた毛皮や麻布、それから貴重な薬材である貝母(喉の薬にする)、黄連などをもって、険しい山道をはるばる二週間かけてや
ってきます。途中梯子で懸崖を登ったり、非常食料を同胞のために崖に掛けておいたり、あまりに危険な旅です。

茨開鎮では、トールン族など、リス族、ヌー族、チベット族、ナシ族、ペー族、漢族が集まり、互いに交易をするのですが、
「漢族」商人は布地、鍋、囲炉裏に使う五徳、猟にも焼き畑にも、旅にも、採取活動にも不可欠なナタなど金物や、現地で採
れない塩などの必需品を、貝母や黄連などの薬材と物々交換するのです。ここで「漢族」というのは、遠く雲南省西部の大理か
らくるペー族や、麗江からくるナシ族は、漢語で他民族と交流することもあり、姓も漢字姓なので、トールン族からは「漢族」
と呼ばれているからです。

この種の交易には、レートがありますが、このレート、漢族商人の方が圧倒的に有利です。
中華民国期のレートを資料から抜き書きしてみましょう(他にもいろいろ資料があります。黄連は時期によって価値上昇、下
落が激しいです)。

たとえば、

塩1椀=竹籠4分の1から2分の1、あるいは竹筒一本。
チューバ(チベット族の袷せ着)=カワウソの皮3尺。
3丈の土布=1〜2抱えの貝母か黄連。
1斤の茶葉=5抱えの黄連。
5寸の鉄鍋=大豚1匹。
鉄小鍋=子豚1匹。
大ナタ1本=トウモロコシ一斗、あるいはシカ皮2枚、麻布は寝床大二枚。
小ナタ1本=鶏1匹。
1斤の黄連=銀貨3〜4枚。
一斤の貝母=銀貨5枚。

(出典:陳燮章・洪俊「雲南省貢山県第四区独龍族社会経済経済調査報告」雲南省編輯組『独龍族社会歴史調査(二)』)雲南民族
調査、1985年:14〜15頁)

夜は貢山県政府の文芸工作団による歌舞の披露でした。そのなかにトールン族のおばあさんの唄の披露がありましたが、顔に
入れ墨をした方でした。成年女子は顔に入れ墨をする習慣があるのですが、これは蝶の形で、その文様でどの血族かがわかる
といいます。奄美でも同様の信仰は聞いたことがあるのですが、世界各国にもある信仰と同じく、人間の魂は死ぬと蝶に化す
という信仰があります。



7. ヌー族について


丙中洛郷に行きました。


[ヌー族について]

この郷は、ヌー族、リス族、チベット族が雑居しています。ここでヌー族という民族について紹介しましょう。
国内総人口27.500人(ミャンマーのカチン州内にも居住)。かつて漢籍文献に「怒子」「怒人」などと表記。チベット・ビルマ
語族に属していますが、それぞれ別個の民族集団を一括りにヌー族に類別しています。

ヌー族は一つの民族集団として捉えると、様々な難しい問題が生じてきます。支系(サブグループ)が多く、以下の四集団があ
るためです。いってみれば、中華人民共和国政府が「ヌー族」という民族名をつけた「フォルダー」をつくったようなもので、
そこにさまざまな民族集団が分類され、所属されるわけです。この種のフォルダー作りの作業を「民族識別」といいます。

とくにアロン支系・アノン支系は言語的な帰属にいまだに定説がなく、ヌー族は、研究上未解決の問題を多く抱えているので
す。

@ヌス支系(16800人・ヌー語支・旧碧江県)
Aロロ支系(3000人・イ語支・蘭坪県、瀘水県=かつて「浪速人」という。唐代に瀾滄江上流に居住した「廬鹿(ロロ)蛮」の
末裔。チベット系の山地民イ族(自称ロロ)と近い)
Bアロン支系(100人程度・ジンポー語説あり、語支未確定・貢山県・トールン族の言葉と通じあう)
Cアノン支系(7600人・ジンポー語説あり、語支未確定・福貢県・かつて男女とも顔に入れ墨の習慣があり、トールン族は現
在も女性の顔の入れ墨が残る)

アロン支系・アノン支系は、高黎貢山を越えた独龍渓谷のトールン族と民俗も共通するところが多く、言語的にも通じるよう
です。この二つの集団が、怒江渓谷でもっとも古い土着の民族集団といえます。トールン族とともにジンポー語支(ミャンマー
側のカチン族と同一民族)に分類することもあります。ロロ支系は、イ族と近いわけですが、そういうよりも実際は四川省大
涼山のイ族などと同じくイ族として扱われてもおかしくないわけです。このような類別の仕方からみれば、怒江渓谷の支配民
族であるリス族と区別し、被支配民族の集団をまとめてヌー族に類別している側面があります。リス族のもとで、奴隷として
働かされていたなどの歴史があります。


[ヌー族の生活状況]

貢山県丙中洛郷査臘村の生活状況を、資料に基づいて抜き書きしてみます。

人口:56戸、310人。ヌー族とリス族が雑居している。
民族構成:ヌー族46戸、リス族6戸、漢族3戸、トールン族1戸(ヌー族に婿入り)。
出生死亡率:六人のうち死亡二人。
宗教:チベット仏教=10戸が信徒・カトリック=39戸が信徒、1889年より布教。プロテスタント)・プロテスタント=6戸
が信徒(内訳:リス族5戸・トールン族1戸・ヌー族0戸)。1930年代にモールス牧師(アメリカ人)によって一帯に広まる。リス
族に信徒多し。
農業:平地に水田、陸稲も作る。雑穀として、傾斜15度の畑地にトウモロコシ・ムギ、傾斜30度から40度の畑地に、トウモロコ
シ・ムギ・ソバなど。かつては焼畑であったが、現在は禁止されている。
手工業:麻・羊毛の紡績。腰に括りつけた機織り機で織る。幅40p、長200p位。民族衣装を作る。酒はトウモロコシの焼酎など。
狩猟:ボーガンを使って狩猟。
食事:主食はトウモロコシ粥。朝食はかならずバター茶を飲む。

(資料出典:趙美(主編)『雲南民族村寨調査:怒族─貢山丙中洛郷査臘村』 昆明:雲南大学出版社、2001年)



8. 丙中洛郷


貢山県の県政府所在地から丙中洛までは、1985年にようやく自動車の通れる公路の建設がはじまりました。一年に二百日が雨
季で、雨が降ると土砂崩れが起きるという条件で、45キロの区間は、大橋が5つ、中橋8つ、小橋6つ、トンネル191ヶ所
というものです(張恵君『三江行』雲南大学出版社:2001年)。

しかし、この丙中洛こそ、怒江渓谷の中でもっとも素晴らしい場所なのです。「怒江第一湾」といわれる怒江の大湾曲の半島は、
オオサンショウウオの頭のようにつきだした丘に、一面トウモロコシが植わっています。
ここを過ぎると、丙中洛郷の平地が見えてきます。そうなのです、ここは怒江峡谷でもっとも広い平地なのです。しかも、山
の頂がそのまま平地になっているというきわめて面白い地形です。東西の雪山が相対して屹立し、東側が竹子坡雪山(4784m)西
側高黎貢山の一部カワカブ峰(5128m)となります。チベット方面の北側には、巨大な岩山が互いに向かい合い、石門をなしてい
ます。

丙中洛は、怒江沿いにチベットに入る駅道の出発点でもあり、この石門から、かつてこの地方を支配していたチベットの察瓦
龍土司の根拠地にまで通じます。

ここにはチベット仏教の寺院もあり、カトリックの教会もあり、プロテスタントの教会もあるのです。とくに白漢洛のカトリ
ック教会は、チベット仏教とキリスト教の対立が引き起こした教案で知られています。Annet Genestler神父(フランス人、中
国名:任安守、1856-1973)がチベットの察瓦龍から南下してこの地に布教をし、1904年丙中洛郷白洛漢に教会建立。1937年チ
ベット仏教と対立して、怒山を越えて瀾滄江側に避難します。このキリスト教関係の事件(教案)でも有名です。

ただ、我々の行った教会は、秋那桶村の教会で、1921年に建立したものです。
ちょうど日曜日でしたので、この日は教会にいっぱい信徒が集まり、賛美歌を唱和していました。ヌー族、リス族、チベット
族と、この地方の主な民族の人たちが集まっていました。

教会の外には宣教師の墓がありました。本来、カトリックの宣教師たちは、チベット族が宗教心に厚いことに期待して、熱心
に布教したのですが、雲南省では大理、四川西部では打箭爐に教区を設立したほかは、なかなか布教に成功せず、とくにチベ
ット仏教からの迫害を受けるにいたった歴史があります。

村にはヌー族の民居とチベット族の民居が混在していました。チベット族の民居は、白い漆喰壁塗りの伝統的な民居です。ヌ
ー族のものは角材組のログハウスで、板葺き屋根の伝統的な様式です。

ヌー族の婦人の腰機織りを見学しました。かつてより派手になりましたが、麻布の民族服です。赤や紺の縦縞が入るのが特徴
です。この衣装の様式はトールン族と同じで、貫頭衣のかたをしています。

チベット族のおばさんの家に行きました。イロリでソバのパンケーキを焼いてくれました。息子の嫁はリス族、娘さんの婿は
ヌー族とのことで、「民族大団結」の土地であることが窺われました。

ソバは、だいたい海抜2500mくらいまでの山地で生産しています。苦蕎と呼ばれるダッタンソバと白い花の咲く、甜蕎麦の二
種類があります。イ族・リス族・ヌー族などが主食にしますが、パンケーキにするだけて、麺にはしません。もともと蕎麦は
十割蕎麦にするのは難しいですから、パンケーキの方が格段作りやすいはずです。

丙中洛郷のあとは、福貢県に行き、かつての怒江州の州都、知子羅というところに行きます。



9. 廃都・知子羅


怒江渓谷の旅は、いよいよこれで終わりです。

かつて怒江リス族自治州の州都は、六庫鎮ではなく、1974年に移転するまで、旧碧江県の知子羅鎮にありました。怒江流域の
南北に通じるとともに、蘭坪ペー族プミ族自治県方面に碧羅雪山を越えて通じる道があり、瀾滄江流域にも出られることが、
州政府を置くのに適していたのではないかと思われます。

知子羅という街はたいへん面白いところにあります。六庫から丙子洛に通じる国道から山道に入って16キロの道のりにあるの
ですが、この道は、碧羅雪山の斜面をいろは坂状に上って行き、遙か怒江渓谷をみおろす標高2000mぐらいの丸い丘のように
なった瘤にあるのです。

1912年中華民国成立後に、知子羅殖民公署が置かれ、国民党政府の怒江辺疆統治の根拠地となりました。州都移転後は碧江県
の県政府所在地として留まっていましたが、この地に青天の霹靂の災害が発生するのです。

私がこの街の名を知ったのは、張恵君氏の『三江行─瀾滄江・怒江・独龍江調査手記』(雲南大学出版社、2001年)という本
で、零落した現在の知子羅の姿が紹介されていたためです。
この本は、怒江州の民族状況・経済状況や生態環境に詳しく、5年間にわたり怒江州全地域を調査した筆者の見識が全編に刻
みつけられている名著で、目下怒江州の全体像を詳細に知るには最良の書籍であるといえます。

この本によると、1979年この地に未曾有の長雨が16日間降り続きます。そこで碧江県の随所で洪水や土石流が発生、知子羅も
地滑りが起き、県政府も他の地に避難を余儀なくされました。1985年9月、雲南省長和志強(ナシ族)が、知子羅を視察する
のですが、結論は街の中に3本の地滑りの恐れのある坂があること、その補修に莫大な金額がかかるなどの理由で、県政府所
在地として不適当と判断され、そのうえ碧江県の撤廃までが決まります。

かくて知子羅は福貢県に編入され、堂々たる州政府という栄光の歴史を過去のものとして、今ではただの行政村であるに過ぎ
ません。

知子羅は正真正銘の廃都です。

小さい丘のようなこの街は、メインストリート一本に、西北角に怒江を臨む望江楼、その脇には八角亭(旧図書館)がありま
す。州都にふさわしい立派な三階建ての中華西洋折衷様式の建物は、しかしがらんどうの中身をいたずらに窓ガラスに映し出
していたのでした。

メインストリートは、整然と敷石がしかれた風格ある通りで、幅も余裕があります。1960年代から1980年代によく見られた煉
瓦組モルタル建ての中国社会主義風建物が、通りの両側に立ち並んでいます。

通りから路地にはいると、山の坂道を階段が伸びています。この両脇はかつての人民政府の役所だったのでした。ところが、
がらんどうの役所の中は、ところどころ人煙の痕跡があります。空いた部屋にそのまま現地のヌー族の村民が入居しているの
です。

山地民らしく、大きな背負い籠を背負った婦人たちは、階段の途中でたちどまり、なにやら聞き取れないヌー族の言葉で静か
に語らっていたのでした。昔懐かしい濃緑の人民帽をかぶり、平たいゴム底の布靴を履き、とくに民族衣装は着ていませんが、
ヌー族のヌス支系の人たちです。背負い籠は縄で額にまでまわして背負っているのが、雲南西北部ならではの背負い方です。
この地方の婦人たちは、みなたいへんな力持ちで、重労働をいとわず力仕事に精を出しているのです。

州人民政府、新華書店と、政府機関の建物がひな壇のように坂道の両脇に立ち並んでいるのですが、そのコンクリの床には、
イロリがしつらえられ、火をおこして湯を沸かしていたり、無造作に家具が置かれていたり、犬が番犬として繋がれていたり、
農民の農家そのものの有様で人々が生活しているのでした。野良に出ていて人影はほとんどありません。

ここはすでに零落し、雲南でもいわば見捨てられた片隅なのですが、この地に生きるヌー族の人たちは、山中のウルシを採集
し、良質な塗料を生産し、不要になった人民政府の建物を住居とし、州都全体をもまま一農村として健気に日々の暮らしを送
っていたのでした。

この日は、福貢県の県政府所在地に宿泊し、翌日ふたたび元の道をたどり、瀾滄江から高速道路に出て、大理の家に帰りまし
た。

学会ツアーで、まことに「馬上に花を観る」がごとき駆け足旅行だったのですが、今後この地をじっくり旅するための予備旅
行として旅のあらましをご紹介しました。