グローバリゼーションと中国少数民族の現在─大研鎮ナシ族の事例
2007/10/27

10/21、西東京市谷戸公民館にて、「シンポジウム グローバリゼーションの現在─新たな公共性を求めて」の第2回セッシ
ョンが開催されたのです。司会は新進気鋭の文芸評論家、助川幸逸郎さん。パネリストは、3名、原宿でイギリス紳士服系
古着店を経営されている、石田真一さん、フランス文学者、これまた新進気鋭の黒木朋興さん、それと、私こと川野明正で
あったのでありました。司会の助川さんは、私の高校時代の同級生です。しかも生徒会長でありました。

石田真一さんは、1970年代以降、イギリス紳士服が大量生産に急速に傾斜し、いまや最後の伝統縫製によるブランドは倒産
し、バーバーリーですら英国内の工場はすべて閉鎖し、中国生産に切り換えになり、正統的な、しかも百年着ることのでき
る紳士服を製造する技術が危機に瀕している現状をわかりやすく伝えていただきました。かつては中国などを飛び回ってい
た商社マンであった石田さんは、本物の紳士服の世界を求めて古着店経営をはじめたということです。

黒木朋興さんは、フランスで博士学位を取得した秀才です。長期のフランス滞在経験から、グローバル化に対抗して、ヨー
ロッパのクラシック音楽の手法や、前衛的手法を取り入れ、世界的な販売網に乗らない、インディーズレーベルでのヨーロ
ッパ系ロックバンド自主活動を、フランス、ベルギーを事例に、CD解説を通して紹介されました。文化活動に対する手厚い
フランス政府の保護を積極評価し、日本は本当に先進国なのか、という根本的な疑問を提示したのでした。

日本は本当に先進国なのか?、文化・教育・研究の推進を本当にやろとする気があるのかという問題は、国立大学の独立行
政法人化で、ほとんどの国立系大学の補助金が減額され、東大・京大の二巨頭態勢で行こうとするがごとき研究補助のお粗
末さにも現れています。日本の理系の基礎研究が、これでは立ちゆかなくなることは明白です(これは余談ですが)。

そして私、川野は、雲南省が90年代以降急速に刊行開発が進み、95年以降の漢族旅行者の急増(ツアー・個人ともに)と、
移動人口の急増を事例として、少数民族文化が商品化に失敗する過程を説明しました。
たとえば80年代後半から、雲南省はバックパッカーでにぎわっていました。雲南西北部の大理古城は、90年代初には、タイ
王国のバンコク(カオサンロード)に集うバックパッカーたちが、大理古城とネパールのポカラとを三角形に結んで移動す
るルートがありました。

大理古城は、4000b級の雪山、蒼山連峰の麓、雲南の明珠と讃えられる雲南第二の湖、アルハイのほとりに作られた
古い城壁都市で、唐代の南詔国や宋代の大理国の王都の所在地です。

夏から晩秋にかけて特にこの地を好んで長期滞在していたパックパッカーは、地元少数民族であるペー(白)族・チベット
族・ホイ族(イスラーム教徒)たちが開くカフェでそれぞれの国の料理を教え、ピザやカツドン、ビーフステーキなどが現
地の食材を使って開発されていきました。
当時中国のどこにもなかったカフェ街は、バックパッカーが集い、いつしか「洋人街」と呼ばれるようになりました。

大理古城のカフェ文化は、中国で国内観光が本格化していない九十年代前半に咲いたあだ花ではなかったかと思います。
当時だんだん増え始めた国内観光客は、カフェに集うバックパッカーを見物しに洋人街にやってきては、ビール片手に酔
眼の西洋人たちを興味津々写真に撮っていました。90年代後半からは、国内旅行者が圧倒的に増えるようになります。

たとえば、いまでは、私が大理古城で経営するペー族伝統民居式の旅館「大理草堂」も、じつはほとんどの客は中国国内
の旅行者です。とくにわざわざ外国人を相手に商売をしなくとも、国内観光客が主なお客様であれば充分やっていけます。
中国国内のお客様を相手に、口コミで情報が伝わればと考えて切り盛りしています。(「大理草堂」旅館について興味ある
方は研究室までお問い合わせください)



大研鎮の観光開発のあらまし


大研鎮は大理古城からバスで4時間ほどに位置し、雲南省西北部の5000m級の玉龍雪山の麓、海抜2700mの麗江盆地の政治
文化の中心地です。もともとは玉河という川の畔に開けた平地に立つ市場が、次第に発展し、明代以降ナシ族の土司(朝廷よ
り地方官として任命された現地少数民族出身の統治者)である木氏がこの地に土司府を置いて以来、雲南西北部の重鎮として
発展していきました。
清代から中華民国期にかけては、チベットからインドに至る交易ルートで繁栄しました。
玉河を中心に、三本の河川が市街を流れ、ベンガラ塗りの木造建築の街並みが風そよぐ柳とともに静謐な佇まいをみせる古
街でした。
チベットを往来した荷馬のキャラバンたちの通行の便を考慮し、馬二頭分がすれ違えるほどの石畳の道が設けられ、蹄でつ
るつるに光る小径が美しい街です。
青地に白の背当てをつけたナシ族の婦人たちが、いそいそと川辺で洗濯をし、野菜を洗う姿が、かつては街の随所に見受け
られました。
そんな大研鎮に大変化が起きます。
大研鎮は1996年マグニチュード7.0の地震に見舞われました。壊滅的とはいえないまでもこのとき市街も損傷を受けたので
す。痛手を負った大研鎮を救う出来事が翌年起こります。1997年、大研鎮はユネスコより世界文化遺産に指定されたのです。
皮肉にも、世界文化遺産への指定が、その後の大研鎮に大きな変化をもたらします。大量の国内観光客の流入です。
夏場など、住民の10倍を超えるかと思われる客が街を徘徊し、雲南各地や沿海地区から移住した臨時居住の漢族たちが、土
産物屋を相次いで開きます。市街はほとんど土産物に埋め尽くされます。

   東京大学大学院都市工学研究科の大学院生として、麗江市の観光開発をフィールドワークした山村高淑さんによれば、1999
年と2000年の2年間に、2000年以前の10年間の約70%が流入したそうです。(山村高淑「開発途上国における地域開発手法とし
ての文化観光に関する研究─中国雲南省麗江ナシ族自治県を事例として」2001年、博士論文、東京大学大学院都市工学研究科)。
また、山村さんの論文によれば、住宅建築の商業利用についての制限がないために、78%が商業目的に利用され、専用住宅は
わずか16%だそうです。加えて、住居の保存についての厳しい条件は、逆に街全体の景観への配慮を伴わず、住民は喧噪な市
街からつぎつぎに自宅を業者に明け渡し、郊外により安い住居を建てるようになります。

こうして、急激な観光地化は、住民の保護という観点がないために、ナシ族の文化的中心地に、ナシ族の住民がいないという
ドーナツ化現象を引き起こします。


大研鎮の今日とナシ族住民の運命

今回の報告で、私は民族文化の観光商品化という問題も取り上げました。
ナシ族はトンバ教という民族宗教をもち、宗教職能者トンバが読誦するための象形文字経典があります。
1999年、麗江第1回国際トンバ文化芸術祭が開催されて以降、「トンバ文化」という名で、さらに急速なナシ族文化の商品化
がはじまります。
地域住民の祭祀儀礼を主宰していたトンバか使うトンバ経典は、ナシ族の生活全般、歴史伝承全般にわたる知識体系ともいう
べき百科全書であります。これが観光化に応じた無難な文化内容の切り取りと、外部への提示を経て、観光商品として再開発
されていきました。

象形文字=トンバ文字は当初わずか数人の伝承者をもつに過ぎなかったのですが、これも急激な観光地化で、粗雑なトンバ文
字を凝らした木版画や土産物で街は溢れかえります。地元ナシ族の制作者はわずかです。

トンパ文化宮では、ショー化したトンバの踊りが新しく考案され、日本の地方都市のハワイアンセンターよろしく、観客のエ
キゾチズムを刺激するのでした。

また、かつて隘路をたどってようやく中心の四方街の広場にたどり着いた街も、一気に取り壊して大通りが設けられ(保護され
ない世界遺産!!)、その両脇には土産物屋とカフェが過剰に建ち並び、夜な夜な酔っぱらった観光客が大声挙げて騒ぎまわる
喧噪の不夜城へと変貌したのでした。

清代初年以前にはかつてなかった城門らしきものもつくられ、もともと二つの中庭を囲んで形成されていたに過ぎない質素な木
氏の土司府は、市街背後の獅子山いっぱいに斜面を使い、面目を一新しています。かつてここが王国であったかといわんばかり
誇らしさです。歴史認識的には、観光客は大研鎮を訪れて、深刻な誤認をして帰えることになるわけです。

街の景観の破壊と、住民の不在化。観光開発がもたらしたものが、少数民族の地域社会の消滅化という現象であったことは皮肉
です。アルバイトでナシ族舞踊を踊らされる老女たちは、そのような小遣い稼ぎよりも、本当に安寧な生活に戻りたいと願って
いるのではないでしょうか。

急激すぎる観光化がもたらした文化破壊という面から、私は中国少数民族の、グローバル化面してのの危機を語ってみたので
した。
たしかに、商品化されることによって、生き残る民族文化もあります。たとえばミャオ族の刺繍や、プイ族のろうけつ染め、
ペー族の絞り染めなど。しかしそれにしても伝統的な意匠ははげしい変容を受けてしまうのです。
民族文化の商品化という問題は、たいへん難しい側面が数多くあります。

ただ、麗江市の大研鎮については、次のことだけは間違えなくいえると思います。
地域住民が住みたくなくなり、事実住まなくなった街、それは死の街にほかならないということです。

津波のような、すべてを洗い流すかのようなグローバル化、そのなかで、マイノリティーのもつ文化は生き残れるのでしょう
か。このような問いかけにどのように答えればよいのでしょう。

今回のシンポジウムで、私は手がかりの一つとして、別の事例を取り上げて論じてみました。しかし、それはまた別の機会に
記事にしてみたいと思います。
簡単にいえは、伝統文化という大樹が切り倒された後、それでも「ひこばえ」のような形で新しい文化的な営為が生まれるこ
とは可能か、ということです。もしも伝統文化の喪失を経験した当事者たちの地域社会が伝統文化に対する関心と潜流のよう
な生命力を保っているならば、そのような再生は不可能ではないと私は考えています。

(その後「島唄を聴く」コーナーで牧岡奈美さんのデビューアルバム『うふくんでーたー』を取り上げた際、この点について論
じてみました)