赤飯と小豆粥


2008−01-09



[赤飯]


赤飯の素材から
赤飯のルーツは、二つの習俗が考えられます。一つは赤米を食べる習俗、一つは小豆粥を食べる習俗です。つまり素材の米と小
豆双方ともに意味があるのです。


赤米

赤米についてまずみてゆくと、もともと赤飯という以前に米自体が赤米だったわけです。

かつて日本の米は中国から入ってきた黒米インディカ長粒種の系統で赤米のお米でしたが、江戸時代では年貢に食味の劣る赤
米は領主に嫌われ、白米を上納したことなどがきっかけで、次第に作られなくなっていきます。
それでも田んぼのあぜ道などでは昔からの赤米が育っていたりしたのですが、明治時代にさらに追い打ちをかけるように雑草
扱いされて駆除されていきます。

日本では最近は逆に栄養のバランスが優れ、ポリフェノールに優れた赤米・黒米が見直されるようになり、富山県農業技術セ
ンターでも赤米「富山赤71号」を開発し、コシヒカリの味のままで、ポリフェノールたっぷりのスーパー赤米が開発された
由です(『富山新聞』HP「富山のニュース・赤米の〈コシヒカリ〉開発 富山県農業技術センター 国に品種登録申請」
(1月5日)(http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20080105203.htm)。
 
いまでも中国の雲南省では、田の畦に赤米が生えているのをみることがよくあります。また、棚田でも有名な南部の紅河イ族
ハニ族自治州は、「米線」(ミーシェン)と呼ばれるライスヌードルのふるさととして知られています。この米線、本場で食
べると赤米が混じっていて、赤い色をしているのです。常食でもよく赤米まじりのご飯が食べられています。

日本では赤米は神社で神に捧げる神饌として今でも使われています。赤米を蒸したもの、あるいは赤い餅を神前に供えること
が赤飯の起源であるといわれています。

ですからもともと赤飯は米だけでできていたのですが、小豆等を入れて赤くした赤飯のおこわが使われるようになりました。
我が家でも月の一日と十五日は赤飯を作る習慣があります。


赤飯の呪力

ところで、赤飯はもともと魔を祓う呪力を備えた食べ物でもあります。

江戸時代でも麻疹を祓うために、麻疹童子と呼ばれる麻疹神に赤飯と赤餅を供える風習がありました。
菱沼一憲氏のエッセイ「赤飯はなぜ赤いのか」に、江戸時代文久年間の「麻疹(はしか)送出しの図」を載せて解説されていま
す(HP『Kusudama 色・旬・鮮のスペシャルなレシピ』www.kusudama.jp/recipe/history/d0mt3h0000008yby.html )(「麻疹
送出しの図」(東京都立中央図書館特別文庫室蔵 芳藤作 文久2、1862年・町田市立博物館図録『錦絵に見る病と祈り』1996年
収録図版)。

「麻疹の流行を象徴した麻疹童子なるものを送り出す(鎮める)ために、赤い御幣(ごへい)を背負わせ、赤い餅と赤飯が供え
られています。御幣も餅も通常は白ですが、病気を退ける呪術的な意味をこめて特別に赤く染められています。ですから、お
供えのご飯も〈赤〉であることに意義があったわけです」。

菱沼一憲氏の指摘する赤飯の呪術的意味を考えると、赤飯の素材の小豆にも、このような赤色の呪術的意味が結びついてきま
す。

6世紀の六朝梁・宗懍『荊楚歳時記』などに記されていますが、赤は、魔よけの色で、中国でもかつて六朝時代に門に犬の血
を塗るなどの習俗で魔を祓っていました。中国ではいまでも赤は魔よけの色で、新春に左右門扉に張る対句である対聯が紅紙
に書かれるのは門の魔よけの名残りですし、自動車のフロントガラスの上にはかならず赤布や赤い結び紐(中国結)が掛かって
います。



[小豆粥]


『荊楚歳時記』にみる小豆粥

赤飯の赤と小豆の赤との意味に通じるこの種の色に因んだ食べ物として、東アジアで広く食されていた食べ物があります。そ
れが小豆を入れた小豆粥です。中国・朝鮮・日本で食されています。小豆の赤い色が、呪力をもっています。

宗懍『荊楚歳時記』は小豆粥の風習についても記しています。

「冬至の日、日の影を量り、赤豆粥を作りて以て疫を禳う」。

唐代の杜公胆の註は次のように記します。

「按ずるに共工氏に不才の子あり、冬至の日を以て死し、疫鬼(えきき)と為り、赤豆を畏(おそ)る。故に冬至の日、赤豆
粥を作り以て之を禳う」。

共工氏は、 神話上の人物で、炎帝祝融(しゅくゆう)または顓頊(せんぎょく・高陽氏。黄帝の孫)と戦い、負けて怒って頭を
不周山にぶつけて崩し、天の柱を折ったといわれる人物です。

冬至に疫病神を祓うために小豆粥を使ったということですが、冬至はもともと元旦の大正月に対して、いわば小正月(こしょ
うがつ)の意味があります。小正月は、日本ではもともと正月十五日が小正月と言われますが、年越しの前後をはさんで、そ
れを補うように節目があるわけです。たとえば、中国では冬至・春節・元宵節(正月十五日)という順番で、春節の前後に節
目が来ます。
無事に年を越すということが、いかにありがたくて、めでたくて、生命の数々の危機を乗り越えてなしとげられる大事業かと
いうことがわかろうものです。


日本における小豆粥と粥占神事

小豆粥を食べて魔を祓うという習俗は中国から日本にも入り、平安時代には貴族の間で十五日の小正月には小豆粥を食べてい
ました。

紀貫之は『土佐日記』で 「十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく…」と小豆粥が出なかったことを残念がっていることから、
彼自身も好物であったのではないかと思います。

清少納言も『枕草子』「ころは正月」の出だしの章に小豆粥を作る習俗を記しています。

「十五日、節供参り据ゑ。粥の木ひき隠して、家の御達(ごたち)、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、常に後を心
づかひしたるけしきもいとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ち当てたるは、いみじう興ありてうち笑ひたるはいとは
えばえし。ねたしと思ひたるもことわりなり。新らしう通ふ婿の君などの、内裏へ参るほどをも心もとなう、所につけてわれ
はと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、奥のかたにたたずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、『あなかま』とまねき制
すれども、女はた知らず顔にて、おほどかにてゐたまへり。『ここなるもの取りはべらむ』など言ひ寄りて、走り打ちて逃ぐ
れば、ある限り笑ふ。男君も憎からずうち笑みたるに、ことに驚かず、顔少し赤みてゐたるこそをかしけれ。また、かたみに
打ちて、男をさへぞ打つめる、いかなる心にかあらむ、泣き腹立ちつつ、人をのろひ、まがまがしく言ふもあるこそをかしけ
れ。内裏わたりなどのやむごとなきも、けふは皆乱れてかしこまりなし」。

女房たちは粥掻棒でお尻をぶっては大笑いし、年上の女房は、お姫さまのお尻を打とうと物陰から窺い、殿御もふだん憎から
ず思う女房の尻を叩いて大笑いの無礼講の乱痴気騒ぎが清少納言にとって「いとをかし」だったわけです。
粥掻棒は、男性器のシンボルの連想から、女性の尻を打つと子宝に恵まれ、男子を産み安産となるという意味もあります。

この習俗は、鎌倉時代には、日本の各地で神社で小豆粥を作り、粥占をして、農家に結果を知らせる行事として広まってい
ます。そこから小豆粥に込められたさまざまな意味も理解できます。

河内一宮、枚岡神社(東大阪市)の粥占神事は旧暦1月11日に行われ、粥と一緒に穀物を入れた竹筒を取り出し、縦に割り、
なかの小豆粥の入り具合によって作物の出来を占います(近鉄HP『K's PLAZA』「枚岡神社 粥占神事 1月11日」の記事が詳しいで
す・www.kintetsu.co.jp/ensentokusyu/omaturiguide/omaturiguide_info/festival0000005.html )。
粟・稗芋・カボチャ・綿・麻<など主要な作物をすべて占い、15日に結果の「粥記」を配ります(カビの生え具合で占う地方
もあります)。
また、粥掻棒で女性の尻を打つ習俗も伝わり、豊作が安産に連なるという豊饒の観念が背景にあるものと考えると、さきの『枕
草子』の記事もむべなるかな、という思いになります。

東北地方でも、小正月の火祭りである左義長の際に粥占いの行事を行うことがいまでも伝えられています。


韓国の小豆粥

いまでも中国(東北地方など)と韓国では冬至の日に小豆粥を食べます。中国では「紅豆粥」(ホンドウチョウ) hóngdòuzhōu)、
韓国では「パッチュク」(팥죽)といいます。

韓国でもそのいわれは『荊楚歳時記』の記すところと同じ言い方が伝わっています。

李氏朝鮮の時代の歳時記、洪錫謨『東国歳時記』「十一月」には次のように記しています。
朝鮮では冬至を「亜歳」と呼び、つまりは「歳朝」(元旦)に亜(つ)ぐ日という意味です。つまりは小正月に相当する言い
方です。

「この日には赤飯の粥をつくる。これに糯米の粉をつくった鳥の卵状の団子をいわれるが、その心(しん)には蜂蜜が入って
いる。この赤米粥は、冬至の日の時食であり、祭祀のときの供え物としても供えられる。また豆の汁を門に灑(そそ)いで、
厄払いにする」(姜在彦訳注・東洋文庫版に依る)。

この一文の後、洪錫謨はやはり定番の『荊楚歳時記』の共工氏の子の記事を引いています。楢木末実『朝鮮の迷信と俗伝』も

「伝染病の神は豆が大の嫌ひである、故に冬至の日は壁や大門(本門)などに豆の粥を塗るとその鬼神が逃げて往く」

とあります(東京・龍渓書舎、2001年:121頁[京城・新文社、1913年の復刻版])。

朝鮮半島ではこのほか、巫俗でも病気払いに小豆粥を使います。同書からさらに引用します。

  「病気にかかつたときは之を巫女に乞ひて祈祷をして貰うとよいが、それでもよくならないときは藁人形を作って病人の着物
を着せ。小豆飯や色々の馳走を拵へて祈祷をすると、病気平癒する。その祭りをした後は之を山か川に棄てる。その着物など
を見た人はまた病気にかかる」(138頁)

などとあり、小豆粥(飯)が、祈祷の際の供物として使われています。これもまた、鬼神は小豆粥を嫌うという伝承と通じた
ものであるでしょう。



中国雲南省の小豆粥行事と伝説

中国の小豆粥の習俗について、『荊楚歳時記』の記す内容と一脈通じるようなわかりやすい習俗として、雲南省に行われてい
た小豆粥の習俗があります。

清初の書、曹樹翹『滇南雑志』巻九「異俗七則」に次のような記事があります。

「元旦・清明・端午・七夕・冬至・除夜は、内地の風俗と同じであるが、人家は小豆で粥を作る」。

『滇南雑志』の記事に相当する習俗について、戦前永尾龍造が『支那民俗誌』第一巻で触れています。内容が詳しいの
でみていきましょう。

「他の地方では貧乏神となっている共工氏の子たちを、雲南省ではこれを疫病神として取扱つてゐて、この疫神を追ふ行事を
正月一日・三月清明・五月端午・七月七夕・十一月冬至および十二月三十日の六回におこなふ風習がある」(241頁)。

「疫神祭の行事としては、先づ家中に於て赤小豆粥を煮て、大碗に盛つて元日の黎明に家神の壇前に供、香燭を献じて之を祭
るのである。また、次に大門外の道路上にあつて、地上に香燭を挿し、紙銭(神や祖先に捧げる紙製の模造銭─筆者注)を並
べ、赤小豆粥の小碗を以て路傍に祭り、祭り終わつて其の赤小豆粥を路上に撒くのである。かくして祭り終わると一同家に帰
り、全家打揃つて赤小豆粥を食べ、それに依つて疫病を予防する方法とするのである」(240-241頁)。

家神とはいかなる神かは、ここではわかりませんが、家神の力を利用し、疫鬼に対して粥を与えて鎮撫し、あわせて家族が粥
を食べて健康を願うという、極めて念入りな習俗で、永尾龍造も指摘していますが、このような習俗が最近まで雲南省に残っ
ていたのも、四月から十月まで雨季がつづき、マラリアや疫病が流行る雲南省の風土と深く関わっているはずです。

この記事で分かることは、中華民国期まで、『荊楚歳時記』の伝承は雲南省にも残っていたということなのですが、その伝承
は次のようになっています。

「雲南省の伝承によれば、昔共工氏に七人の子があつたが、皆負不才子で、流れ流れて遂に邪神の仲間入りをなし、専ら人の
恐るる瘟疫を世間に伝播して人々を苦しめた。しかしこの邪鬼は赤小豆を恐れ、これをみると奔り避けるといふので、民間に
於いては赤小豆粥を煮て之を家神への供物とし、それによって家神の幇助を得て疫鬼を防がうとするのである」(241頁)。

この伝説は、唐・宋以来年越し前に行われていた窮鬼(貧乏神)の伝承が、共工氏の子の伝説となって雲南に伝わっているも
のと思われます。唐代の韓愈に貧乏神送りの「送窮文」があります。明・馮応京『月令広記』では、窮鬼は顓頊の子とな
っていて、晦日の晩に路地裏で野垂れ死にして貧乏神として祭られたといういわれを記しています。


むすび

赤飯も小豆粥も、小豆を素材とした魔よけの食べ物というところが、東アジアの民間信仰からみて面白いところです。
ちなみに雲南省の大理地方のペー族では冬至は餅を食べる日になっていますし、陝西省では餃子を食べる日ですが、全国的に
は「湯圓」(餅団子の一種)を食べる地方が多く、餅の系統かそれに準ずる食品を食べる習俗があります。それでも小豆粥が
いちばん魔よけの意味としては適していたのだということは、韓国や日本に残る小豆粥の習俗からも窺えるのです。