沖縄の旅


2007−11-18


浦添市で開かれた、日本道教学会の大会に参加するために沖縄に行きました。


1.基地のある現実


11月11日 から11月13日までの旅です。

那覇空港に近づくと、徳之島や与論島の島影が、群青の海にぽっかり浮かびます。感動の言葉を心に叫びます。『ワイド! ワ
イド!』(徳之島闘牛の掛け声)。
そうして高度を下げて着陸態勢に。非常口横のイスであったので、キャビンアテンダントさんが向かいに座ります。こういう
とき、こっ恥ずかしくて、声をかけずにはいられません。

「あのう」おそるおそる話しかけます。

「米軍基地があると、軍用機と民間機で棲み分けというか、管制下に飛ぶのもたいへんなんではないでしょうか?」

キャビンアテンダントさんは微笑みながらちゃんと答えてくれました。
曰く、米軍管制区域をさけて、飛行機は沖縄の南部を回るように着陸するのだそうです。
離陸の時は、高度三百メートルをしばらく維持してから、上昇するなど、結構たいへんなんだそうです。軍艦が停泊している
ときなども空路を変更したり、待機を命じられたりするのだそうです。

私たちは、すでに着陸前に沖縄の基地のある現実のなかにあるのです。


2.私とウチナーンチュ(沖縄人)の方々


久しぶりの沖縄でした。その前は、五年前、助手時代の相方の助手の結婚式で、沖縄本島に来たことがありました。その方
は、お父様とお母様が宮古島の出身でした。宮古島のことなども、たまに教えてくれました。

大学院の先輩には、本島沖の伊平屋島出身の女性の方がいて、その方も和服でしゃなりと授業に現れたりして、鷹揚と、気品
のある人でした。後輩の一人は、なんとなんと沖縄を代表する政治家、社会党の上原康助さんの姪でした。本島北部国頭地方
の人。東京で勉強に打ち込むその理由が凄いです。「沖縄にいると、政治の血が騒ぐ」のだそうです。

国頭地方は学者も多いところですよ。『山原の土俗』を書いた島袋源七など。

本島南部の出身で、神高い(霊的な感性)心をお持ちの女性の後輩もいました。
みなさん、素晴らしく、温かい心をお持ちで、個性も強烈な方たちでした。いつも何人かの沖縄県の方、それもいろいろな地
域の方が身近にいて、私のウチナーンチュ(沖縄人)への興味も掻きたてられるのでした。

これらの方のほかに、中国から来た先生を案内したときに知り合った、各島の方、たとえば宮古島の佐渡山安公さん・政子
ご夫妻、西表島の石垣金星さん、与那国島の池間苗さんなどの方にお世話になっています。
奄美では、五年前、奄美大島を案内していただいた音楽評論家・JABARAレコード代表の森田純一さん、アマミッチュでは、そ
の御紹介でお宅にお邪魔した唄者の中村瑞希さんや名ガイドの安田ひろぞうさんなどがおられます。


3.牧志公設市場の魚屋さん


空港から市内までは、「ゆいれーる」というモノレールが出来ていました。二両編成の可愛いモノレールは、大都市向けのも
のではなく、モノレール版軽便鉄道です。カーブも極端にきついです。
沖縄戦で跡形もなく壊され、消滅した戦前の那覇の軽便鉄道の再来ともいえます。

美栄橋でおりて、さっそくビジネスホテルで宿泊。同じ学会に参加する編集者Oさんにご夫妻に電話、待ち合わせて国際通り
に行きました。すでに七時半くらいでした。

牧志公設市場、通称マチグゥアーは、観光客は誰でも行くところでしょう。一階の食材店は、テビチ(豚足)・チラガー(豚
の顔の薫製)などの豚肉の数々が無造作に並びます。
それらを素通りして、魚屋さんにいきました。五百円の料理代で、二階の食堂街で料理してもらいます。

アバター(ハリセンボン)はギョロメで可愛く、しかし針に毒があるので、真っ白の丸裸にして食べます。

イラブチャー(青ブダイ)は、珊瑚礁の海の水の色と何らかわらないコバルトブルー。

赤オレンジのギョロメはオジサンという魚。

そしてマングローブの主、ノコギリガザミ(ヤドカリ)は、爪をヒモでくくられて可哀想。

セミエビはグロテスクで、どっちが前だか、後だかわかりにくい代物、でも味は最高といいますが、二万円じゃああきらめま
しょう。

そこで、足が四本ばかりもげてしまった巨大青エビ、これを九千円で購入。いつも水槽から逃げようと様子を窺っています。
あとはグルクン(タカサゴ・沖縄の県魚)を四匹プレゼント。安く食べられたのは値段交渉の駆け引きが上手なOさんの御蔭
です。

さっそく二階に向かいます。今度来たときは、是非ヤコウガイの刺身を食べてみたいです。

巨大なヤコウガイは、椰子の実ほどの大きさで、でっかい目ン玉のような乳白色の身がいかにもコリコリしてそうで美味しそ
うでした。


4.沖縄タバコ


あっ、そうそう、沖縄たばこも忘れず購入、バイオレット(180円)・うるま(190円)・HI-TONE(210円)の三兄弟です。
肩肘はらない沖縄タバコ、バイオレットは、百円玉と五十円玉と十円玉一つずつで買える庶民の味方です。

沖縄返還前に生産していたタバコを1972年に日本専売公社が引き継いだ現地生産品(現在は島外生産)で、かつてうるま・バ
イオレットは琉球煙草製、ハイトーンはオリエンタル煙草製でした。

バイオレットがいちばんうまいくてコクもあると思いますが、沖縄の人には逆に「よくこんな強いの吸っていますね」といわ
れる始末。

「いやいや、セー小(グワー)だって吸ってますよ。これ」。
セー小とは、知名定男さんの師匠、登川誠仁さんのことです。沖縄音楽界の大御所なのに、気さくでみんなに親しまれている
ので、可愛いものにつけられる「小」(グワー)で呼ばれているわけです。ヒヤミカチ節など速弾きの名手でもあります。


5.公設市場の二階料理屋「きらく」にて


昔からある「きらく」で料理してもらいますが、はじめから下の魚屋ときらくが持ちつ持たれつの仲になっているわけです。
龍船競争の大きな絵が掛かっています。

八時過ぎのラストオーダーにもかかわらず、店は満員です。観光客は我々ヤマトゥンチュ(大和人)ほか、台湾の人もいます
し、地元の打ち上げやらで和装のおばさんたちで賑わっています。どのテーブルにもオリオンビール。

「ハレ、カンパーイ!!」

地元の方にとっては、「ワッター(われわれ)自慢のオリオンビール」というわけです(ビギンのCMソングからの引用です)。
刺身がでっかい舟盛りになってやってきました。青エビ、大きかったぁ。まるで船の黒帆のように、おどろおどろしく邪悪さ
いっぱいに上半身屹立しています。

「イョオハーレィ、西の口から、黒帆(くるほ・元歌は白帆)や巻ゃ巻ゃ来(き)ゅうり」

と、心の中で奄美の豊年節を一字変えで謡ってしまいました。舟盛りは和船で、まるで唄に出てくる薩摩船を思わせる毒々し
い奇っ怪さです。もちろん船の名は「山川観音丸」に決まりです(豊年節に出てくる薩摩船の名、よく江戸時代の船の名が、
今日まで謡い継がれてきたものです)。

青エビは、身がコリコリしていて、透明で、それは新鮮。まったりほんのりした甘さです。四方に刃を入れたグルクンも、よ
く火が通ってぱりぱりで、素晴らしい味でした。おまけの刺身には、マチとよばれる大トロもかくやと思われるアブラの乗り
のよさ、海ブドウ、その他もろもろがついてきて、値段もじつに経済的でした。
青エビの残り身は、でっかい鉄鍋でみそ汁に、食べ応えのあるぷりぷりの白身が、弾力があって見事でした。


6.亀甲墓 その1 伊是名家の墓


明けて明けての翌々日、11月13日、日本道教学会のエクスカーション(学会ツアー)に参加しました。
まずは沖縄県立博物館近くの伊是名家の墓を見に行きました。那覇市教育委員会島金城弘さんに解説して頂きました。銘苅地
区古墓群G地区と呼ばれる地域にありますが、ここは米軍基地があったため、最近ようやく返還され、古墓群も残ったようです。
グスク時代(十三世紀間の百年前後の期間)の亀甲墓で、規模最大といいます。
崖を掘り抜き、墓前方を方形の前庭を置いています。墓の側から観て左手(青龍脈側)に墓地の土地神である后土神(中国の
女性の土地神で、「后土瑞慶夫人」という称号で呼ばれることもあります)を祀る祠部分があることが特徴です。土地神を祀
ってから、祖先を祭祀するという順序です。


7.佐敷屋比久のトゥーティークン(土帝君)


首里城で首里城と那覇の街の風水を日本道教学会会長の都築晶子先生に解説してもらいました。
そのあと、バスで沖縄南部に向かい、南城市の佐敷にあるトゥーティークンの祠を観ました。

「土帝君」と書き、土地神です。集落に四個所あるといい、丘の中腹の原っぱに祠があります。ここは屋比久グスクのほぼ中
央に位置するということですから、村の風水のよいところに建っています。中国風の土地神像があり、神名が記してあります
が読めません。
新しそうな神像ですので、台湾あたりから持ってきたのかもしれません。
中国では土地神は白髪、白衣の老人姿で、村神として祭祀される土地廟があり、また香港などでは家ごとに土地神を祭祀し、
「福徳正神」などと呼ばれます。
沖縄本島にもこの系統の信仰が伝わっています。毎年旧暦二月二日に、字の長老を先頭に区民が拝みに来るのだそうです。

土帝君の祠のすぐしたに古墓があり、表の石板を外すと、石棺があるのがわかります。
ふつうはやってはいけませんが、開けてなかをみたことは、研究のために見せていただきましたと、あとで重々お詫びしまし
た。

丘の下は植木のもと、人々が集まれる納涼スペースがありました。

このあたりは沖縄の伝統的な民居が残り、真四角の木造建築に四角錐のオレンジ色の瓦屋根が映えます。
雨戸を開けて畳にごろ寝のまま、涼しそうですが外から丸見えなのがこちらも申し訳ないところです。

民居の前はT字路になっていて、民居に悪い気がまっすぐ突き当たるのを防ぐために、「石敢当」で防御していました。


8.斎場御嶽(セーファーウタキ)


深い南国の原生林につつまれた沖縄の御嶽(ウタキ)は、沖縄各地、宮古・八重山を含めて広く拝所として現地の人々の信仰
の拠り所となっています。

沖縄本島では、開闢の神アマミキヨが作ったとされる、七つの御嶽があり(安須森御嶽〈アスムゥイウタキ〉国頭村辺土、ク
ボウ御嶽 今帰仁村、 斎場御嶽(セーファーウタキ)南城市知念、 薮薩御嶽〈ヤブサツウタキ〉南城市玉城、雨つづ天つぎ
御嶽 南城市玉城の玉城城内、クボー御嶽、南城市知念の久高島、首里真玉森御嶽(トュイマダムイウタキ)首里城内)、わ
けても知念半島にある斎場御嶽は国家祭祀と直接関わり、第二琉球王国でもっとも重要な御嶽でした。琉球神話は天孫降臨神
話ですが、斎場御嶽はアマミキヨ降臨の聖地、久高島を遥拝する位置に造られています。手つかずの原生林のなかに、奇跡と
しかいえない拝所の岩の洞門があり、四季絶えず華やかに蝶が舞い飛ぶ聖なる森です。知念文化財案内講師金城雄さんに案内
をいただいて見学しました。

奄美から与那国島に至る琉球弧の島々には、村ごとに祭祀を行う神女であるノロがいます。これは琉球王国から任命された国
家公務員のような立場ですが、ノロの祭祀組織の筆頭に位置するのが、国王の姉妹である聞得大君(キコエオオキミ)です。
姉妹が神として兄弟を守るオナリ神の信仰が、国家祭祀のシステムの中に組み込まれているのです。

斎場御嶽は、聞得大君の就任儀式が行われる場所です。
海の彼方、ニライカナイから飛来した神霊、キンマモンが聞得大君に憑依して、聞得大君は霊力をもつことになるのです。

御嶽は本来男子禁制ですが、世界文化遺産登録の際に、観光客に開放されています。
御嶽の森のなかに入ってゆける数少ない機会を提供しているので、たいへん有り難いことです。
もちろん、御嶽の森の一木一草持って帰ってはいけません。
案内をしていただいた金城雄さんも、子供の頃きれいな石をもって帰ったとき、病気になり、ユタの方に御嶽に入って石を持
って帰ったのではないかといわれて、あとで家族で詫びに赴いたそうです。
国王が入るときも、帯を解いて、女性としての身分を示してから入ったそうです。国王は、聞得大君の即位式のほか、二年に
一度久高島と交代で参拝したそうで、現地の人も毎年八月に「東御廻り」(アガリマーイ)といって、御嶽に参拝したそうで
す。

御門口(ウジョーグチ)
斎場御嶽の入口である御門口(ウジョーグチ)は、灯籠三基と神の居所を示す角石がいくつも置いてありますが、男子と一般
庶民はこの先へは入れずここで参拝するそうです。国王は帯をほどいて、女性の身分として中に入ったそうです。

大庫理(ウフグーイ)

大きな崖があります。傍らにはノロの頭にかぶる蔓草(トウツルモドキ)などが鬱蒼と生えています、聞得大君即位 儀式の
際に、中心的な祭場となった場所で、大きな部屋を意味するそうです。

三庫裏(サングーイ)

岩盤が見事な縦三角形の空間を構成する洞門でまさしく神秘な造形です。ここから金の勾玉と寛永通宝が出土した由。金の勾
玉は聞得大君が身につけたものに違いありません。光に満ちた洞門をくぐると、右手に石垣と石段があり、クバ(ビンロウ)
などの生い茂った樹林のかなたに久高島を望みます。珊瑚礁のコバルトブルーの海の波間に平坦に横たわる久高島でした。

久高島は、穀物などのユー(富)がやってくる海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地です。かつて十二年に一度、一度
の午年の旧暦十一月十五日から二十一からの六日間、島の三十歳から四十歳までの女性が神女に就任(新任神女ナンチュとい
います)するための秘祭イザイホーが行われていましたが、そもそも神女となる資格が、久高島に生まれ、久高島で結婚した
者に限るということなどから、現在すでに実施不可能となっています(記録写真集に名著、比嘉康雄〈写真〉・谷川健一〈文〉
『神々の島─沖縄久高島のまつり』平凡社、1979年があります)。

チイタイイシ

三庫理の横の崖岩ある二本の垂れた鍾乳石。その下に壷が置かれ、鍾乳石から滴る水を受けます。壷の水の量により、その年
の収穫を占ったといいます。鍾乳石を乳房に見立てたもので、壺の中の水は聖水としても使われたそうです。

寄満(ユインチ)

大庫理の奥の崖。宝物や幸福が寄せては「満ちる」という意味で、かつては馬形の石があって、これら善きものたちを運んで
くるとされたといいます。


9.焚字炉


斎場御嶽の次は、南城市玉城百名にある「焚字炉」(フンジロ)です。焚字炉というのは、字を書いた紙、つまり書き損じの
紙などは、屑として捨てず、専用の燃やすための炉で燃やすという、中国の文字崇拝的な信仰にもとづく炉のことです。たと
えば、台湾は南部を中心に焚字炉がたくさんあり、それをすべて網羅した本も出ています。

向かって左は、「ちんだかーの御嶽」、中は「大城(うふぐしく)ガー」、右が焚字炉です。ガーとは井戸のこと。御嶽はあ
とで移設されたようです。
『国頭郡志』ではこれを「文塚」と記すと、現地の南城市教育委員会による解説にありました。十九世紀中期、冊封使の林鴻
年という人物が、文字を敬重し、路上に捨てることなく、字紙を敬うことを説き、焚字炉を設置したといいます。昔婦人たち
が髪結いの際に使った不要の髪を焼いたので、「カミヤチャー」といったり、沖縄のある地方では、旧暦の十二月三十日、つ
まり年越しの晩に、まとめて紙を焼いたといい、あるいはいつでも焼いてよいが、灰が半年か一年に堆積したら、これを取り
出して河口や海に流したといいます(エクスカーション資料より、参考文献として、『沖縄大百科事典』沖縄タイムス刊、198
3年・中山盛茂『琉球史辞典』1969年が挙げられています)。
林鴻年だけでなく、冊封使各人の勧めで各地に設置し、広まったらしいです。


10.亀甲墓 その2 摩文仁上タナケナ原の古墓


糸満市の摩文仁上タナケナ原にある亀甲墓を最後に見に行きました。
琉球石灰岩の丘を掘り込んで造られていて、十八世紀中から十九世紀初頭にかけての墓と推定されています。

解説は糸満市役所の金城善さんで、特別の計らいで墓の内部を見学できることになりました。見学前の晩に墓の中でバルサン
を焚き、ハブを防いでいただいたといいます。
天井は見事なアーチを描き、中はイケといって、骨を集めて一族ごとに収める納骨スペースと、骨壺を置く台があります。
その手前は棺を収めるスペースがあります(屈葬)。洗骨するまでのあいだ遺体をそこに安置します(これを「シルヒラシ
ドゥクル」(汁干上がらしどころ)といいます)。骨壺を使うのは庶民ではなく、かといって骨を合葬するのは庶民の習俗なの
で、裕福な家の墓であったらしいけれども、祭祀が途絶えてすでにどのような家の墓であったかはわからないそうです。


11.おわりに


久しぶりの沖縄滞在でしたが、わずか三日の間に随分いろいろな見聞がありました。やはり最大の収穫は島唄を聴き続けて、
CDもたくさん買ったことでした。ただし、それに関してはこの記事には記さず、別の機会に譲ります。
今後奄美・沖縄の琉球弧の島々について、できれば一島ずつ訪問する機会があるとよいと思いました。
その前に、まずはできるだけたくさん島唄を憶えましょう。