南波照間島の幻想─大工哲弘『蓬莱行』に寄せて


2007−12-15


南波照間島の幻想


南波照間島─列島の最末端から表象される幻影肢。

八重山の島唄歌手、大工哲弘さんの『蓬莱行』というアルバムを買いました。「奇妙な果実」という言葉がピッタリくる、
きわめて錯綜した内容を持つジンタソングのこのCDについては、またの機会にお話ししますが、ケースを開けて青、赤
の二枚組のCDケースをみたとき、私は驚愕したのです。そこにはexo−Paipatirohmaと書いてあったのでした。私は一瞬
目を疑いました「蓬莱行」という東方海上の不老不死の仙人が住むといわれる仙島への旅行を指すこのタイトルの英語は、
「南波照間島への逃避行(エクソダス)」を意味していたからでした。

南波照間島とは、日本列島ないし琉球弧の最末端から表象される幻影肢に他なりません。
日本の最南端、波照間島の人たちは、さらに南の海の彼方に南波照間島という島があるという信仰があるのです。波照間島
は最南端ではないということになっています。

波照間島は、パティローマ、つまり「果て(ハテ)の珊瑚礁(ウルマ)」を意味します。自分たちの島が琉球弧の島々のなかで、
末端としての語源を担わされていることに、受け入れがたい気持ちをももっていたのかも知れません。

しかし、このような夢の島伝説は、琉球弧の人々にとっては、富(ユー)の根源でもあり、死者の国でもあるような、水平線
向こうの根の国、ニライカナイの信仰にも裏打ちされていることは間違いありません。

ニライカナイは東の海の果てにあるとされますが、それが架空の島として想像されることもありました。その島の名前は大東
島(フウアガリジマ)というのです。しかるにその名は本当に発見されるに至ったわけです。1543年 スペイン人、B・デ・ラ・
トーレが大東諸島を発見しましたが、東の海の果てにあるという観念上の島が、本当に出現してしまったという点で、大東島
は興味深い事例です。しかも、ニューギニア近海から長い年月をかけてえっちらおっちらこの島はやってきたのです。日本列
島に年に7pずつ近づいているそうですが、大東諸島は本当にやってきた島、富(ユー)の島なのでしょう。

波照間島に話を戻します。幻の島の伝承には、南波照間島の伝承だけではなく、他にもあり、たとえば、「ペーヌシマ」(南
の島の意味)の伝承があります。永積安明氏によると、ペーヌシマは、波照間島から近く、夕方には島影を見ることが出来、
炊事の煙が見える近さというのです。ペーヌシマには「石の門」をくぐって行くとされ、しかも島人が波照間島に小豆などを
盗みに来たとも言います。豪傑の女性「ピタブパー」が、海に機織と鍋を投げ入れたところ海が荒れ、それ以来島は見えなく
なった(永積安明「南波照間島―沖縄離島の構想」『世界』403号、1983年)。

また、「スネ」の伝承もあります。石垣繁氏によると、「スネ」とは、「海中の暗礁」のことです。波照間島の沖にはいくつ
か「スネ」があり、そのうちミーヌパー(巳、つまり南東南方)に6、70km行った地点の大きな「スネ」は、地殻変動により
沈んだ「南波照間島」だとという伝承もあります(石垣繁 「民話の系譜─パイパティローマ説話の世界観」八重山文化研究会
編『八重山文化論集』第3号、ひるぎ社、1998年)。

日本列島の末端としての南波照間島は、しかしながら現実存在するとされていた以上、新天地、ユートピアとして島民の出奔
を促すものでもありました。

薩摩支配下に置かれた琉球王朝は、琉球王国の支配下にあった宮古・八重山の島々の住人に対して、過酷な税収を行わなけれ
ばなりませんでした。それが、一定の年齢になると、その者に税を課す人頭税です。1637年から1903年の300年近く、この過
酷な収奪はつづきます。その税の重さは、与那国島では、人間を田に追い込み、溢れた者を殺したという「人桝田」(トゥン
グダ)の伝承に語られています。

実際南波照間島を目指した記録としては、次のようなものがあります。

『八重山島年来記』には、1648年に波照間島平田村の島民40〜50人が重税から逃れるために大波照間島(南波照間島と同じ架
空の島)に渡ったという記述があります。

また、波照間島の伝承ではヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人の船を奪い、村人を連れて南波照間島に向
かったとの伝承があるとのことです(柳田國男『海南小記』1925 年)。

池間栄三著『与那国の歴史』(1959年、池間苗個人発行)には、与那国島の比川集落の人々が南方にある楽土ハイドゥナン
(南与那国島)に向かって逃亡したとしています(13〜14頁)。

このような出奔者が実際にあったことが、人頭税の時代の南の島の人たちが、「より南の他の島」への憧憬と期待をもってい
たことの証といえましょう。

『蓬莱行』のプロデューサー神谷一義氏は、

「現世を穢土厭離と考えた庶民・衆生は南の彼方に唯心の浄土を欣求したのかもしれない。この場所ではない、何処か・・・」

と記していますが、このような仏教的発想は、まさしく足摺岬や紀州から、死に装束でわずかな食糧だけもって南海の果てに
あるといわれる観音の浄土を目指した補陀落渡海の思想とも近い立場です。じっさい補陀落渡海の行者に、沖縄本島に漂着し
た者もいて、観音寺を建てるなど、沖縄の仏教布教に力を尽くした日秀上人など、沖縄に観音信仰を広めた僧侶もいます。
もちろん補陀落渡海の信仰とは、直接の関わりはないですが、沖縄のニライカナイの観念が、本土の仏教的な浄土思想ともシ
ンクロする思想をも含んでいることはたしかです。

西表島祖納のシチ祭りは、海の彼方にあるニライカナイから、五穀豊穣のウシマユー、ミルクユーを招来する行事です。ミル
クユーとは、「弥勒世」の浄土を指します。つまり弥勒信仰は、琉球弧の島々ではニライカナイの豊饒性をあらわす観念とな
っているのです。

いまとなっては、たしかな証明はできる由もありませんが、南波照間島をルソン島や、台湾や蘭嶼島に比定する説もあります。
ただ、台湾については、マライ・ポリネシア系原住民の首狩りの習慣などが恐れられていた節もあります。たとえば、与那国
島のクブラ節では、巨大なわらじを海に流す習慣があり、このような巨人がこの島に住んでいるから近寄るなという近隣の島
に対する意思表示です。

笹森儀助著『南島探検』は、

「往事台湾人、与那国島へ渡り、男女を生捕り食へとりとの言ひ伝へにて今も年一回の某の祭神に丈二尺の大草鞋を造り台湾
島への風向を待って流すの習慣あり」

と記しており、台湾が、警戒をもって相対していた島であったことがわかります。台湾は、じつは快晴の日は、与那国島から
見える距離にあるのです。また、民間伝承についても、与那国島のそれと、台湾原住民のそれは、なかなか比較できる話が見
つかりにくいという、断絶も感じられます。

台湾があこがれの島となるのは、戦前の蘇鉄地獄といわれる饑饉の時代以降です。このとき八重山の人々は、台湾に行き、一
旗揚げようと、多数の人が移り住んだのでした。

大工哲弘さんの『蓬莱行』には、戦前謡われた「台湾行き数え歌」があります。竹富島から台湾に渡った女性は、都会のモダ
ンな洋服と化粧で島に戻り、島の人々を驚愕させたといいます。南の島、八重山諸島の人々は、このときこそ、台湾という、
より南の島を本当に憧れを寄せるに足る実在の島を見いだしたのでした。それが日本に植民地化された場所であるという、自
身の生きる沖縄県と同一の場所性をもつにも関わらず、台湾こそは、蘇鉄地獄の中で希望とした立ち現れた富の島、夢の島だ
ったのでした。

私自身がとても興味を持つ説は、南波照間島を蘭嶼島に比定する説です。これはたしかな証明はできないはずで、ただの空想
に過ぎないのですが、一つの想像としてとても面白いのです。又吉盛清氏(「パイパティローマを追って」 『GARVE』 第3
号、パナリ本舗、1994年)、石垣繁氏が、(「民話の系譜─パイパティローマ説話の世界観」八重山文化研究会編『八重山文
化論集』第3号、ひるぎ社、1998年)蘭嶼島説を唱えていますが、その検証はここでの目的ではありません。

『蓬莱行』には、「イリヌミルク」という曲があります。この曲についての、森美千代さんのコメントを紹介します。
蘭嶼島は波照間島から320qほどの台湾南東沖の島です。先住民のタオ族は、「神が天上の楽園をタオ族に手渡しさせて管理
させた」という神話があり、蘭が咲き誇る美しい島とのことです。蘭嶼島の東側のムラ、東清村のタオ族語の地名は、イリ
ヌミルクというだそうです。その地名の意味はタオ族も不明というのですが、これを八重山の言葉で解釈すると、「西の弥
勒」(イリヌミルク)の意味となります。波照間から流れ着いた人たちが、このようなユートピアめいた名前を付けたと考
えると、とても楽しいと書いています。

それはまさしく「西方浄土」のことです。イリノミルクというタオ族の地名は、なんと魅力的な響きをもっているのでしょう。
南波照間島の幻想も、海の彼方にミルクユーを求める想像力であったことは、間違いないからです。