ヌー族の「ピーカンイ」─「食い物の恨み」について


2007-09-15

呪いという行為がそうであるように、人間の祈りというものは、けっして美しい祈りばかりではありません。
しかし、生死の境まで追いつめられたとき、人間は生存を賭けて必死にそのように祈りを行うことがあります。
 
『日本残酷物語』第1部「貧しき人々のむれ」(下中邦彦編、平凡社、1959年)には、この類の話がいくつか書
かれています。

たとえば、宮古島と八重山諸島の間のとある小さい島は、水源に恵まれず幾日も雨が降らなかったり、時化が
つづくとたちまち食糧に困ったそうです。
暮らしに限界まで追いつめられた人々はそうしたとき、沖の浅瀬を通る船が座礁してくれることを願ったそう
ですが、これはやむを得ざる祈りの典型でしょう。
また九州北岸のある村では、難破船がもたらす漂着物が流れてくることを願って、正月にお椀とお箸を海に流
すといいます。
下北半島のある村でも、正月の年占いに、大きい釜に小さい船を並べ、それがひっくり返る順序でその年の船
のくつがえる順序を占ったといいます。

雲南省北部のサルウィン河(中国名怒江)上流域に住むヌー族(漢字表記怒族)は焼き畑農耕と採取・狩猟
生活を送る山地民です。彼らには「ピーカンイ」という餓えた者が祟る生霊信仰があります。

たとえば、もともと貧しい生活を送っている村で、たまたま誰かが肉を手に入れて食べたとして、
その後食べた人物が病気になると、このピーカンイの仕業であるとされるのです。餓えに苛まれた
者が、肉にありついた者に嫉妬して、体の中から魂が抜け出て、肉を喰った者の魂を咬むといいます。
このようなとき、牛皮・豚皮とそれらの骨を焼いて、呪文を唱え、道端か、疑わしい者のそばなどに置くと、
病気はピーカンイの許に送られ、本人が逆に病に苦しむといいます。
(何淑濤「巫師が鬼を招いて災いを祓う」〈原題「施巫招鬼降災」〉呂大吉等主編『中国原始宗教資料叢編
・怒族巻』1993年所収)

つまり、これは人より良いものを手に入れた者が、他の人々の嫉妬を買うと、その人の意念の影響を受けて害
を被るという信仰です。人を不幸にしようとする悪意の祈りを呪いと呼ぶならば、このような祈りは、なにか
得をした者が、得をした分だけ相応の報いがなければならないという歪んだ信念が根底にあるのでしょう
(たとえば、小松和彦氏が、アメリカの人類学者、G.フォスターの「限定された富(善きもの)のイメージ」
の概念を引いて説明する日本の憑きもの信仰の「ゼロ=サム」理論的な側面などがそれに当たるでしょう)
(小松和彦『憑霊信仰論』1994年)。

つねに他者を自分の立場と同等な立場まで引きずり下ろそうとする、「平均化」への心の力学が作用している
といってもよいかもしれません。

「食い物の恨みは恐ろしい」とはいいますが、日々の食い物が十分でない社会では、まさしく食い物がそうし
た怨恨を生み出す原因となるのでしょう。人間の生存を支えるもっとも必要な問題をめぐっては、このような
忌まわしい信仰が生まれることも理由のないことではないことかもしれないと思うのです。
今村仁司が『暴力のオントロギー』(勁草書房、1982年)でいうように、たしかにこのような信仰は眉をひそ
めざるをえないものですが、ただそれを好ましくないとみなすのではなく、なぜこのような力学が、社会のな
かに生じてしまうのか、その暴力のあり方を見つめるために社会が社会であるための根源にまで遡って考える
ことも必要だと思うのです。
おそらく、東アジアの各地の民俗社会を対象に、妖怪研究をするということの意義は、このような研究が
そのような共同体の根源へ遡及するだけの見通しと力量をもちうるかもしれないと期待されるからだと
思うのです。