『成都通覧』にみる怪異─訳と注釈

2008-01-08

『成都通覧』(全八冊)は、生活・習俗・文化全般は言うに及ばず、方言・交通・地理・社会・教育・経済・商工業など、森
羅万象すべてを記した成都百科事典ともいうべき大部の著作で、清末民初の四川省の省都成都について、知ろうと思う人にと
り、欠かせない一冊です。

この本は成都在住のジャーナリスト。傅崇矩という人物の編纂になるもので、出版や印刷の事業も手がけた人物です(注1)。
傅崇矩は、1909年(宣統元年)から翌年にかけて本書を著しています。これまでは東京は駒込の東洋文庫(国会図書館支所)
にいって、清宣統元年二年刊行の成都『通俗報社』の石版印刷本を見ていましたが、中国で去年活字本が出たので、多少の図
版や内容の省略が気になるものの、手軽に参照できるようになりました(『成都通覧』成都・成都時代出版社、2006年)。
成都に住む外来の人の生活手引きとして刊行された本で、民間信仰の方面では神々への上奏文の文例まで記していますし、詐
欺のさまざまな手口まで網羅しています。

一地方都市の社会を、ここまで細かく手に取るように分かる本として、この本の右に出るものはないとってもいいでしょう。
「成都之怪談」の条は、民間信仰に関わるとても奇妙な「べからず集」といったもので、ここにその十四ヶ条を訳出してみます
(251頁)。


1)藩台の大堂中の門は開くべからず。(注2)

2)成都県の張献忠の書くところの「七殺牌」は拓本をとるべからず。(注3・4)

3)東門外の白塔の白塔は修理すべからず。

4)華陽県の県署の二堂の中門は開くべからず。

5)大慈寺の接引仏の下には「海眼」があり、動かすべからず。(注5・6)

6)県台の執務机の上の警堂木(釘で机の上に堅く釘付けされている)は叩くべからず。(注7・8)

7)鼓楼街の楼上の大鐘は衝いても音が鳴らない。

8)成綿道で都江堰まで行って引き返すとき、帰りは輿を飛ばして途中休むべからず。あわせて郫県に泊まるべから
ず。(注9)

9)雨が久しく降りつづき、晴れなければかならず北門を閉じる。(注10)

10)城隍が街を出巡る時、まずは二つの県署に行き監獄の囚人の名冊を払い、城隍が帯びる牌を以てすでに死んだ囚人の姓名
を取り上げ、牌の上に記すと、城隍の神像を担ぐ者は御輿が重く感じられる。(注11・12・13)

11)春牛を打つときの春牛の頭は府の倉庫に保管される。(注14)

12)犀浦の火碑は拓本をとるべからず(かならずや火災が起こる)。(注15・16)

13)陝西会館の劇舞台は魯班によって建てられたというが、あわせて鉄竿が立っている。(注17・18)

14)三巷子の余仁山はかつて病気を治すのに符を画き、碗を割ったが、そのような術で病気を治すことができた。(注19)



本文を訳出して、注釈を加えてあとはとくにコメントはいたしませんが、本書にはそのほかにも、死者の魂が一定期間経つと
鶏身の妖怪になって帰宅する「回煞」の信仰も記し、あわせてその奇っ怪な足跡の図まで掲載しています。澤田瑞穂
『中国の民間信仰』(東京・工作舎、1986年)一書にも図版が転載されています。ただ、中国の成都時代出版社版では削除さ
れています。

なお清末から中華民国期の成都のストリートカルチュアーの研究として、以下の本があり、当時の成都人の生活について詳細
な知見を得ることができます。Di Wang, Street Culture in Chengdu: Public Space, Urban Commoners, and Local Politics,
1870-1930 , Stanford University Press, 2003 (中国語訳本:王笛(著)・李徳英、・謝継華・摎(訳)『街頭文化─成
都公共空間、下層民衆与地方政治 1980-1930』中国人民大学出版社)。



注釈

(注1)傅崇矩=中裕史氏の論文「近代中国の出版事業管窺―成都を例として」(『南山大学図書館紀要』2003年:133-140頁)
に記される生平を引用する。

「傅崇矩 (1873?〜1917) 、樵村と字す。 1898年に尊経書院を卒業。 師である宋育仁の影響をうけて、 科学知識の普及
や実業の振興、 民衆の啓蒙に尽力する。 成都図書局の創設、 『啓蒙通俗報』 や 『通俗画報』 の創刊、 編集など、 成都
の近代的な印刷、 出版事業の発展に大きな貢献をした。 人力車を製造してその普及に一役買ったことでも知られる」(133頁)。

(注2)藩台=清代の官職で、「承宣布政使」、いわゆる明代からある布政使のことで、一省の民政・財政を管轄した。

(注3)張献忠=(1606年-1646年)四川に明末清初依って大西を号した流賊。陝西延安衛の出身。反乱軍の首領、高迎祥の
下に投じ、李自成とともに反乱軍を率いた。四川で破れかぶれの大虐殺をつづけた人物として知られる。

(注4)七殺碑=もとは張献忠の発布した民を教化するための聖諭「人無一物与天、鬼神明明、自思自量」(人は一物として
天に与るはなく、鬼神は明明として、自い思い自ら量るべし)を石碑にして成都の官署に石碑立てたものが、民間では 「天
生万物与人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」(天は万物と人を生み、人は一物として天に与るはなく、殺せ殺せ殺せ殺せ殺
せ殺せ殺せ)と、七字の「殺」字を連ねていたものと流伝していたことが真相らしい。

(注5)大慈寺=大聖慈寺。今の東風路にあり。『通志』によれば、唐の至徳年間(757年)の建立。寺内の壁画が、唐の名画
家呉道子の手になることでも知られる。

(注6)海眼=接引仏とは、西方浄土に亡者を接引する阿弥陀如来のことである。弥陀如来の銅像の下に、海に通じる穴があ
るという民間伝承があり、これを「海眼」という。夜の夜中に阿弥陀仏の足元に耳を押しつけると潮の音が聞こえるというの
だが、いかにも海から遠く離れた成都らしい言い方である。秦代に都江堰の堤防を作り、治水に功績があった李冰について、
灌口の悪龍を退治したあと、阿弥陀仏を鋳造して海眼を鎮圧したという民間伝説がある(歴史的には荒唐無稽)。

(注7)県台=県の警察機構で、事件の捜査、取り調べを行う部署。

(注8)警堂木=とは叩き木のことで、裁判の時に机を叩いて犯人に警告するのが、警堂木である。

(注9)成綿道=清代中葉には成都から北部の行政区画に成綿道があった。文中は成都から綿州(現在の綿陽)のあいだの交
通を指し、都江堰見物の帰りの俗信を述べている。

(注10)「北門を閉じる」=雲南省の大理古城では、かつて干ばつの際には南門を閉ざしたという。これは南が五行五色説の
火に当たるからである。これに対して北門は五行五色説では水に当たるので、北門を閉ざしたのである。

(注11)「城隍の出巡」=原文は「城隍出駕」。城隍とは城市と行政区画の守護神で、知事に相当する神格の神。都には都城
隍、府には府城隍、州には州城隍、県には県城隍がいる。城隍神の祭日に、城隍の神像を御輿に座らせ、城市内にを練り歩い
た。この一文は難解であるが、城隍は生死に関わる神で、同時に悪人を懲罰する冥界の警察権もある。したがって城隍が出巡
する際、監獄に赴き刑死者の魂を収容し、冥界に送致するものと考えられていたのであろう。

(注12)二首県署=成都県と華陽県の県署(県衙門)が当時成都城内にあった。

(注13)「監獄の囚人の名冊を払い」=原文は「掃監卡」、「監卡」は、監獄の役人部屋、「差房」にあるもので、
革命などで囚人を解放したとき、これを毀して解放したという。

(注14)打春牛=原文は「打春」。立春の行事で、県知事(知県)など、各行政区画の長官が春を迎えるために泥で出来た張
り子の牛を叩いた。江戸時代の書で、村松一弥・孫伯醇訳注『清俗紀聞』に図版入りで清代の「打春牛」の行事が紹介されて
いる。

(注15)犀浦=今の成都市郫県犀浦鎮。

(注16)火碑=火を鎮める石碑。
HP『成都方志網』(www.cdhistory.chengdu.gov.cn/html/xxym2.asp?ID=6246)に詳しいので引用する。
「火碑 碑は高さ8尺余,正面に咒符図様を刻む。年代不詳。もと成都の蓮花池に立つが後に,犀浦の文昌宮内(今の犀浦鎮中
心小学校。文昌宮は学問の神である文昌帝君を祭祀する)に移設されるが、その具体的な時期は不詳。伝わるところによると、
この火門は火災を鎮めることができるという。民国15年(1929)、郷人は資金を集めて火碑亭を建立した。亭は二丈余、碑亭
は1966年に取り除かれたが、火碑はいまは合作郷の曹家寺に現存する」。

(注17)陝西会館=『成都通覧』「成都之会館公所」によれば、陝西街にあり。

(注18)魯班=建築業者の奉ずる職能集団の守護神(祖師爺)。春秋時代魯国の公輸般のこと。空飛ぶ木の鳥を発明したなど
の伝説があり、木工に優れた人物とされる。陝西会館が魯班の手で建てられたということは荒唐無稽である。

(注19)「符を画き、碗を割った」=余仁山はいわゆる法術を使って治病したことで当時は成都に名を馳せた人物だったので
あろう。このような法術使いを、中国の西南地方では「端公」という。けだし巫師の類である。「碗を割った」の原文は、「砍碗」
で碗を刀で斬り割ること。碗はよく清めの浄水を入れ、清めたあとで法刀などで斬りつけて割るなどの呪法がある。